て傘入の中に立っていた。鎌首は下駄箱《げたばこ》の方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分の室《へや》に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た音信《たより》の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者《ヴァガボンド》を知己に有《も》つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り紛《まぎ》れと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その後《あと》へだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲《まんしゅう》の霜《しも》や風はさぞ凌《しの》ぎ悪《にく》いだろう。ことにあなたの身体《からだ》ではひどく応《こた》えるに違《ちがい》ないから、是非用心して病気に罹《かか》らないようになさいと優しい文句を数行《すぎょう》綴《つづ》った。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように旨《うま
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