て、肝心《かんじん》の世渡りの方には口先ほど真面目《まじめ》になれなかった。一度|下座敷《したざしき》で若々しい女の笑い声が聞えた時などは、誰か御客が来ているようだねと尋ねて見ようかしらんと考えたくらいである。ところがその考えている時間が、すでに自然をぶち壊《こわ》す道具になって、せっかくの問が間外《まはず》れになろうとしたので、とうとう口へ出さずにやめてしまった。
それでも須永の方ではなるべく敬太郎の好奇心に媚《こ》びるような話題を持ち出した気でいた。彼は自分の住んでいる電車の裏通りが、いかに小さな家と細い小路《こうじ》のために、賽《さい》の目《め》のように区切られて、名も知らない都会人士の巣を形づくっているうちに、社会の上層に浮き上らない戯曲がほとんど戸《こ》ごとに演ぜられていると云うような事実を敬太郎に告げた。
まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋《かなものや》の隠居の妾《めかけ》がいる。その妾が宮戸座《みやとざ》とかへ出る役者を情夫《いろ》にしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に代言《だいげん》だか周旋屋《しゅうせんや》だか分らない小綺麗《こぎれい》な格子
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