ってちょっと御通知を願います。さよなら」
 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出《ひきだし》へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入《でいり》の都度《つど》、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。


     停留所

        一

 敬太郎《けいたろう》に須永《すなが》という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌《だいきらい》で、法律を修《おさ》めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義《たいえいしゅぎ》の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋《さみ》しいような、また床《ゆか》しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇《のぼ》った上、元来が貨殖《かしょく》の道に明らかな人であっただけ、今では母子共《おやことも》衣食の上に不安の憂《うれい》を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半《なか》ばはこの安泰な境遇に慣《な》れて、奮闘の刺戟《しげき》を失った結果とも見られる。というものは、父が比較
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