しい客が這入《はい》った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を抱《いだ》いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上部《うわべ》は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦燥《あせ》らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に狩《か》り歩《あ》るいていた。
或る晩もその用で内幸町まで行って留守を食《く》ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈《きはちじょう》の袢天《はんてん》で赤ん坊を負《おぶ》った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉毛《まゆげ》の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば粋《いき》な部類に属する型だったが、どうしても袢天|負《おんぶ》をするという柄《がら》ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前垂《まえだれ》の下から格子縞《こうしじま》か何かの御召《おめし》が出ているので、敬太郎はますます変に思った。外面《そと》は雨なので、五六人の乗客は
前へ
次へ
全462ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング