皆|傘《かさ》をつぼめて杖《つえ》にしていた。女のは黒蛇目《くろじゃのめ》であったが、冷たいものを手に持つのが厭《いや》だと見えて、彼女はそれを自分の側《わき》に立て掛けておいた。その畳んだ蛇《じゃ》の目《め》の先に赤い漆《うるし》で加留多《かるた》と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
 この黒人《くろうと》だか素人《しろうと》だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉《まゆ》を心持八の字に寄せて俯目勝《ふしめがち》な白い顔と、御召《おめし》の着物と、黒蛇の目に鮮《あざや》かな加留多という文字とが互違《たがいちがい》に敬太郎の神経を刺戟《しげき》した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、顔質《かおだち》は悪い方じゃありませんでした。眉毛《まみえ》の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中で憶《おも》い起しながら、加留多と書いた傘の所有主《もちぬし》を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森
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