だ仕合せであった。
千代子はかくのごとく明けっ放しであった。けれども夜が更《ふ》けて、母がもう寝ようと云い出すまで、彼女は高木の事をとうとう一口も話頭に上《のぼ》せなかった。そこに僕ははなはだしい故意《こい》を認めた。白い紙の上に一点の暗い印気《インキ》が落ちたような気がした。鎌倉へ行くまで千代子を天下の女性《にょしょう》のうちで、最も純粋な一人《いちにん》と信じていた僕は、鎌倉で暮したわずか二日の間に、始めて彼女の技巧《アート》を疑い出したのである。その疑《うたがい》が今ようやく僕の胸に根をおろそうとした。
「なぜ高木の話をしないのだろう」
僕は寝ながらこう考えて苦しんだ。同時にこんな問題に睡眠の時間を奪われる愚《おろか》さを自分でよく承知していた。だから苦しむのが馬鹿馬鹿しくてなお癇《かん》が起った。僕は例の通り二階に一人寝ていた。母と千代子は下座敷に蒲団《ふとん》を並べて、一つ蚊帳《かや》の中に身を横たえた。僕はすやすや寝ている千代子を自分のすぐ下に想像して、必竟《ひっきょう》のつそつ苦しがる僕は負けているのだと考えない訳に行かなくなった。僕は寝返りを打つ事さえ厭《いや》にな
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