母と顔を見合わして挨拶《あいさつ》を取り替《かわ》す前に、まず千代子に向ってどうして来たのだと聞きたかった。実際僕はその通りの言葉を第一に用いたのである。
「叔母さんを送って来たのよ。なぜ。驚ろいて」
「そりゃありがとう」と僕は答えた。僕の千代子に対する感情は鎌倉へ行く前と、行ってからとでだいぶ違っていた。行ってからと帰って来てからとでもまただいぶ違っていた。高木といっしょに束《つか》ねられた彼女に対するのと、こう一人に切り離された彼女に対するのとでもまただいぶ違っていた。彼女は年を取った母を吾一に托するのが不安心だったから、自分で随《つ》いて来たのだと云って、作が足を洗っている間《ま》に、母の単衣《ひとえ》を箪笥《たんす》から出したり、それを旅行着と着換えさせたりなどして、元の千代子の通り豆《まめ》やかにふるまった。僕は母にあれから何か面白い事がありましたかと尋ねた。母は満足らしい顔をしながら、別にこれという珍らしい事も無かったと答えたが、「でもね久しぶりに好《い》い気保養《きほよう》をしました。御蔭で」と云った。僕にはそれが傍《そば》にいる千代子に対しての礼の言葉と聞こえた。僕は千
前へ
次へ
全462ページ中386ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング