い》を貰った経験がないから、そう云う事を口にする資格はないかも知れないが、いかな仲の善《い》い夫婦でも、時々は気不味《きまず》い思をしあうのが人間の常だろうから、彼らだって永く添っているうちには面白くない汚点《しみ》を双方の胸の裏《うち》に見出しつつ、世間も知らず互も口にしない不満を、自分一人|苦《にが》く味わって我慢した場合もあったのだろうと思う。もっとも父は疳癖《かんぺき》の強い割に陰性な男だったし、母は長唄《ながうた》をうたう時よりほかに、大きな声の出せない性分《たち》なので、僕は二人の言い争そう現場を、父の死ぬまでいまだかつて目撃した事がなかった。要するに世間から云えば、僕らの宅《うち》ほど静かに整《とと》のった家庭は滅多《めった》に見当らなかったのである。あのくらい他《ひと》の悪口を露骨にいう松本の叔父でさえ、今だにそう認めて間違《まちがい》ないものと信じ切っている。
 母は僕に対して死んだ父を語るごとに、世間の夫のうちで最も完全に近いもののように説明してやまない。これは幾分か僕の腹の底に濁ったまま沈んでいる父の記憶を清めたいための弁護とも思われる。または彼女自身の記憶に時間
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