ので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭《らっぱ》が、陰気な空気を割《さ》いて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
松本の家《うち》は矢来《やらい》なので、敬太郎はこの間の晩|狐《きつね》につままれたと同じ思いをした交番下の景色《けしき》を想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共|二股《ふたまた》に割れて、勾配《こうばい》のついた真中だけがいびつに膨《ふく》れているのを発見した。彼は寒い雨の袴《はかま》の裾《すそ》に吹きかけるのも厭《いと》わずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒《かじぼう》を握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるで趣《おもむき》が違っていた。敬太郎は後《うしろ》の方に高く黒ずんでいる目白台《めじろだい》の森と、右手の奥に朦朧《もうろう》と重なり合った水稲荷《みずいなり》の木立《こだち》を見て坂を上《あが》った。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた
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