ど》の記憶さえ有《も》っていた。
 二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫《むらさき》がかった空気の匂う迷路《メーズ》の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗《あん》に働らいてこれまで後を跟《つ》けて来た敬太郎には、馬鈴薯《じゃがいも》や牛肉を揚げる油の臭《におい》が、台所からぷんぷん往来へ溢《あふ》れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥《はる》かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚《さと》った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟《しげき》された食慾を充《み》たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の後《あと》を追ってそこの二階へ上《のぼ》ろうとしたが、電灯の強く往来へ射《さ》す門口《かどぐち》まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味《まず》い。ひょっとするとこの人は自分を跟《つ》けて来たの
前へ 次へ
全462ページ中171ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング