て傘入の中に立っていた。鎌首は下駄箱《げたばこ》の方を向いていた。敬太郎はそれを横に見たなり自分の室《へや》に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。まずこの間向うから来た音信《たより》の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者《ヴァガボンド》を知己に有《も》つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り紛《まぎ》れと簡単な一句でごまかしておいた。次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その後《あと》へだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲《まんしゅう》の霜《しも》や風はさぞ凌《しの》ぎ悪《にく》いだろう。ことにあなたの身体《からだ》ではひどく応《こた》えるに違《ちがい》ないから、是非用心して病気に罹《かか》らないようになさいと優しい文句を数行《すぎょう》綴《つづ》った。敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように旨《うま》くかつ長く、そうして誰が見ても実意の籠《こも》っているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の挨拶《あいさつ》に述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。と云って、固々《もともと》恋人に送る艶書《えんしょ》ほど熱烈な真心《まごころ》を籠《こ》めたものでないのは覚悟の前である。それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにして前《さき》へ進んだ。
七
森本が下宿へ置き去りにして行った荷物の始末については義理にも何とか書き添えなければすまなかった。しかしその処置のつけ方を亭主に聞くのは厭《いや》だし、聞かなければ委細の報道はできるはずはなし、敬太郎《けいたろう》は筆の先を宙に浮かしたまま考えていたが、とうとう「あなたの荷物は、僕から主人に話して、どうでも彼の都合の宜《い》いように取り計らわせろとの御依頼でしたが、あなたの千里眼の通り、僕が何にも云わない先に、雷獣《らいじゅう》の方で勝手に取計ってしまったようですからさよう御承知を願います。梅の盆栽《ぼんさい》を下さるという事ですが、これは影も形も見えないようですから、頂きません。ただ御礼だけ申し述べておきます。それから」とつづけておいて、また筆を休めた。
敬太郎はいよいよ洋杖《ステッキ》のところへ来たのである。根が正直な男だから、あの洋杖はせっかくの御覚召《おぼしめし》だから、ちょうだいして毎日散歩の時突いて出ますなどと空々しい嘘《うそ》は吐《つ》けず、と言って御親切はありがたいが僕は貰いませんとはなおさら書けず。仕方がないから、「あの洋杖はいまだに傘入《かさいれ》の中に立っています。持主の帰るのを毎日毎夜待ち暮しているごとく立っています。雷獣もあの蛇の頭へは手を触れる事をあえてしません。僕はあの首を見るたびに、彫刻家としてのあなたの手腕に敬服せざるを得ないです」と好加減《いいかげん》な御世辞《おせじ》を並べて、事実を暈《ぼか》す手段とした。
状袋へ名宛を書くときに、森本の名前を思い出そうとしたが、どうしても胸に浮ばないので、やむを得ず大連電気公園内娯楽掛り森本様とした。今までの関係上主人夫婦の眼を憚《はば》からなければならない手紙なので、下女を呼んでポストへ入れさせる訳にも行かなかったから、敬太郎はすぐそれを自分の袂《たもと》の中に蔵《かく》した。彼はそれを持って夕食後散歩かたがた外へ出かける気で寒い梯子段《はしごだん》を下まで降り切ると、須永《すなが》から電話が掛った。
今日内幸町から従妹《いとこ》が来ての話に、叔父は四五日内に用事で大阪へ行くかも知れないそうだから、余り遅くなってはと思って、立つ前に会って貰《もら》えまいかと電話で聞いて見たら、宜《よろ》しいという返事だから、行く気ならなるべく早く行った方がよかろう。もっとも電話の上に咽喉《のど》が痛いので、詳しい話はできなかったから、そのつもりでいてくれというのが彼の用向であった。敬太郎は「どうもありがとう。じゃなるべく早く行くようにするから」と礼を述べて電話を切ったが、どうせ行くなら今夜にでも行って見ようという気が起ったので、再び三階へ取って返してこの間|拵《こし》らえたセルの袴《はかま》を穿《は》いた上、いよいよ表へ出た。
曲り角へ来てポストへ手紙を入れる事は忘れなかったけれども、肝心《かんじん》の森本の安否はこの時すでに敬太郎の胸に、ただ微《かす》かな火気《ほとぼり》を残すのみであった。それでも状袋が
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