郵便函の口を滑《すべ》って、すとんと底へ落ちた時は、受取人の一週間以内に封を披《ひら》く様を想見して、満更《まんざら》悪い心持もしまいと思った。
 それから電車へ乗るまではただ一直線にすたすた歩いた。考も一直線に内幸町の方を向いていたが、電車が明神下《みょうじんした》へ出る時分、何気なく今しがた電話口で須永から聞いた言葉を、頭の内で繰り返して見ると、覚えずはっと思うところが出て来た。須永は「今日内幸町からイトコが来て」とたしかに云ったが、そのイトコが彼の叔父さんの子である事は疑うまでもない。しかしその子が男であるか女であるかは不完全な日本語のまるで関係しないところである。
「どっちだろう」
 敬太郎は突然気にし始めた。もしそれが男だとすれば、あの後姿の女についての手がかりにはならない。したがって女は彼の好奇心を徒《いたず》らに刺戟《しげき》しただけで、ちっとも動いて来ない。しかしもし女だとすると、日といい時刻といい、須永の玄関から上り具合といい、どうも自分より一足先へ這入《はい》ったあの女らしい。想像と事実を継《つ》ぎ合わせる事に巧みな彼は、そうと確かめないうちに、てっきりそうときめてしまった。こう解釈した時彼は、今まで泡立《あわだ》っていた自分の好奇心に幾分の冷水を注《さ》したような満足を覚えると共に、予期したよりも平凡な方角に、手がかりが一つできたと云うつまらなさをも感じた。

        八

 彼は小川町まで来た時、ちょっと電車を下りても須永《すなが》の門口《かどぐち》まで行って、友の口から事実を確かめて見たいくらいに思ったが、単純な好奇心以外にそんな立ち入った詮議《せんぎ》をすべき理由をどこにも見出し得ないので、我慢してすぐ三田線に移った。けれども真直《まっすぐ》に神田橋を抜けて丸の内を疾駆する際にも、自分は今須永の従妹《いとこ》の家に向って走りつつあるのだという心持は忘れなかった。彼は勧業銀行の辺《あたり》で下りるはずのところを、つい桜田本郷町まで乗り越して驚ろいてまた暗い方へ引き返した。淋《さび》しい夜であったが尋ねる目的の家はすぐ知れた。丸い瓦斯《ガス》に田口《たぐち》と書いた門の中を覗《のぞ》いて見ると、思ったより奥深そうな構《かまえ》であった。けれども実際は砂利を敷いた路《みち》が往来から筋違《すじかい》に玄関を隠しているのと、正面を遮《さえ》ぎる植込がこんもり黒ずんで立っているのとで、幾分か厳《いか》めしい景気を夜陰に添えたまでで、門内に這入《はい》ったところでは見付《みつき》ほど手広な住居《すまい》でもなかった。
 玄関には西洋擬《せいようまが》いの硝子戸《ガラスど》が二枚|閉《た》ててあったが、頼むといっても、電鈴《ベル》を押しても、取次がなかなか出て来ないので、敬太郎《けいたろう》はやむを得ずしばらくその傍《そば》に立って内の様子を窺《うか》がっていた。すると、どこからかようやく足音が聞こえ出して、眼の前の擦硝子《すりガラス》がぱっと明るくなった。それから庭下駄《にわげた》で三和土《たたき》を踏む音が二足三足したと思うと、玄関の扉が片方|開《あ》いた。敬太郎はこの際取次の風采《ふうさい》を想望するほどの物数奇《ものずき》もなく、全く漫然と立っていただけであるが、それでも絣《かすり》の羽織《はおり》を着た書生か、双子《ふたこ》の綿入を着た下女が、一応御辞儀をして彼の名刺を受取る事とのみ期待していたのに、今《いま》戸を半分開けて彼の前に立ったのは、思いも寄らぬ立派な服装《なり》をした老紳士であった。電気の光を背中に受けているので、顔は判然《はっきり》しなかったが、白縮緬《しろちりめん》の帯だけはすぐ彼の眼に映じた。その瞬間にすぐこれが田口という須永の叔父さんだろうという感じが敬太郎の頭に働いた。けれども事が余り意外なので、すぐ挨拶《あいさつ》をする余裕《よゆう》も出ず少しはあっけに取られた気味で、ぼんやりしていた。その上自分をはなはだ若く考えている敬太郎には、四十代だろうが五十代だろうが乃至《ないし》六十代だろうがほとんど区別のない一様《いちよう》の爺さんに見えるくらい、彼は老人に対して親しみのない男であった。彼は四十五と五十五を見分けてやるほどの同情心を年長者に対して有《も》たなかったと同時に、そのいずれに向っても慣れないうちは異人種のような無気味《ぶきみ》を覚えるのが常なので、なおさら迷児《まご》ついたのである。しかし相手は何も気にかからない様子で、「何か用ですか」と聞いた。丁寧《ていねい》でもなければ軽蔑《けいべつ》でもない至って無雑作《むぞうさ》なその言葉つきが、少し敬太郎の度胸を回復させたので、彼はようやく自分の姓名を名乗ると共に手短かく来意を告げる機会を得た。すると年嵩《としかさ》な男は
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