《とうせい》に崩《くず》して往来へ流した匂《におい》のする町内を恍惚《こうこつ》と歩きたかった。そうして習慣に縛《しば》られた、かつ習慣を飛び超《こ》えた艶《なま》めかしい葛藤《かっとう》でもそこに見出したかった。
彼はこの時たちまち森本の二字を思い浮かべた。するとその二字の周囲にある空想が妙に色を変えた。彼は物好《ものずき》にも自《みずか》ら進んでこの後《うし》ろ暗《ぐら》い奇人に握手を求めた結果として、もう少しでとんだ迷惑を蒙《こう》むるところであった。幸いに下宿の主人が自分の人格を信じたからいいようなものの、疑ぐろうとすればどこまでも疑ぐられ得る場合なのだから、主人の態度いかんに依《よ》っては警察ぐらいへ行かなければならなかったのかも知れない。と、こう考えると、彼の空中に編み上げる勝手な浪漫《ロマン》が急に温味《あたたかみ》を失って、醜《みに》くい想像からでき上った雲の峰同様に、意味もなく崩れてしまった。けれどもその奥に口髭《くちひげ》をだらしなく垂らした二重瞼《ふたえまぶち》の瘠《やせ》ぎすの森本の顔だけは粘《ねば》り強く残っていた。彼はその顔を愛したいような、侮《あなど》りたいような、また憐《あわれ》みたいような心持になった。そうしてこの凡庸《ぼんよう》な顔の後《うしろ》に解すべからざる怪しい物がぼんやり立っているように思った。そうして彼が記念《かたみ》にくれると云った妙な洋杖《ステッキ》を聯想《れんそう》した。
この洋杖は竹の根の方を曲げて柄《え》にした極《きわ》めて単簡《たんかん》のものだが、ただ蛇《へび》を彫ってあるところが普通の杖《つえ》と違っていた。もっとも輸出向によく見るように蛇の身をぐるぐる竹に巻きつけた毒々しいものではなく、彫ってあるのはただ頭だけで、その頭が口を開けて何か呑《の》みかけているところを握《にぎり》にしたものであった。けれどもその呑みかけているのが何であるかは、握りの先が丸く滑《すべ》っこく削《けず》られているので、蛙《かえる》だか鶏卵《たまご》だか誰にも見当《けんとう》がつかなかった。森本は自分で竹を伐《き》って、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。
六
敬太郎《けいたろう》は下宿の門口《かどぐち》を潜《くぐ》るとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。というよりも途《みち》すがらの聯想が、硝子戸《ガラスど》を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物《せともの》の傘入《かさいれ》の方へ引きつけたのである。実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入《でいり》の際視線を逸《そ》らしたくらいである。ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の傍《そば》を通るのが苦になってきて、極《きわ》めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと祟《たた》られたと云う風になって、しまった。彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。彼は一種の利害関係から、過去に溯《さかの》ぼる嫌疑《けんぎ》を恐れて、森本の居所もまたその言伝《ことづて》も主人夫婦に告げられないという弱味を有《も》っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの曇《くもり》もかけなかった。記念《かたみ》として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、他《ひと》の好意を空《むなし》くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ死《じに》という終りを告げるのだろう。)その憐《あわ》れな最期《さいご》を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。そうして多能な彼の手によって刻《きざ》まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を開《あ》いたまま喰付《くっつ》いているとする。――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟《おおげさ》ではあるが一種の因果《いんが》のように考えた。けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計《かっけい》とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に災《わざわい》されていなかったのである。
今日も洋杖《ステッキ》は依然とし
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