》りつくように頼む。いや帰らない、いや帰れといって、往来の氷る夜中でも四隣《あたり》の眠《ねむり》を驚ろかせる。……
 須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を拭《ぬぐ》ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。固《もと》よりその推察の裏には先刻《さっき》見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は咽喉《のど》が痛いから」と云った。さも小説は有《も》っているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶《あいさつ》に聞えた。
 敬太郎が二階から玄関へ下りた時は、例の女下駄がもう見えなかった。帰ったのか、下駄箱へしまわしたのか、または気を利《き》かして隠したのか、彼にはまるで見当《けんとう》がつかなかった。表へ出るや否や、どういう料簡《りょうけん》か彼はすぐ一軒の煙草屋《たばこや》へ飛び込んだ。そうしてそこから一本の葉巻を銜《くわ》えて出て来た。それを吹かしながら須田町まで来て電車に乗ろうとする途端《とたん》に、喫煙御断りという社則を思い出したので、また万世橋の方へ歩いて行った。彼は本郷の下宿へ帰るまでこの葉巻を持たすつもりで、ゆっくりゆっくり足を運ばせながらなお須永の事を考えた。その須永はけっしていつものように単独には頭の中へは這入《はい》って来なかった。考えるたびにきっと後姿の女がちらちら跟《つ》いて来た。しまいに「本郷台町の三階から遠眼鏡《とおめがね》で世の中を覗《のぞ》いていて、浪漫的《ロマンてき》探険なんて気の利いた真似《まね》ができるものか」と須永から冷笑《ひや》かされたような心持がし出した。

        五

 彼は今日《こんにち》まで、俗にいう下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得ない男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜《くぐ》れない格子戸《こうしど》だの、三和土《たたき》の上から訳《わけ》もなくぶら下がっている鉄灯籠《かなどうろう》だの、上《あが》り框《がまち》の下を張り詰めた綺麗《きれい》に光る竹だの、杉だか何だか日光《ひ》が透《とお》って赤く見えるほど薄っぺらな障子《しょうじ》の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたまらないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面《きちょうめん》に暮らして行く彼らは、おそらく食後に使う楊枝《ようじ》の削《けず》り方《かた》まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうしてそれがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆《たばこぼん》のように、先祖代々順々に拭《ふ》き込まれた習慣を笠《かさ》に、恐るべく光っているのだろうと推察する。須永《すなが》の家《うち》へ行って、用もない松へ大事そうな雪除《ゆきよけ》をした所や、狭い庭を馬鹿丁寧《ばかていねい》に枯松葉で敷きつめた景色《けしき》などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の開花の懐《ふところ》に、ぽうと育った若旦那《わかだんな》を聯想《れんそう》しない訳に行かなかった。第一須永が角帯《かくおび》をきゅうと締《し》めてきちりと坐る事からが彼には変であった。そこへ長唄《ながうた》の好きだとかいう御母《おっか》さんが時々出て来て、滑《すべ》っこい癖《くせ》にアクセントの強い言葉で、舌触《したざわり》の好い愛嬌《あいきょう》を振りかけてくれる折などは、昔から重詰《じゅうづめ》にして蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合《できあい》以上の旨《うま》さがあるので、紋切形《もんきりがた》とは無論思わないけれども、幾代《いくだい》もかかって辞令の練習を積んだ巧みが、その底に潜《ひそ》んでいるとしか受取れなかった。
 要するに敬太郎《けいたろう》はもう少し調子外《ちょうしはず》れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日《きょう》の彼は少くとも想像の上において平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿《しめ》っぽい空気がいまだに漂《ただ》よっている黒い蔵造《くらづくり》の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍ずつ蠣殼町《かきがらちょう》の水天宮様《すいてんぐうさま》と深川の不動様へ御参りをして、護摩《ごま》でも上げたかった。(現に須永は母の御供をしてこういう旧弊《きゅうへい》な真似《まね》を当り前のごとくやっている。)それから鉄無地《てつむじ》の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世
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