ないので、行く敬太郎の方でも張合があったのかも知れない。
「糊口《くち》も糊口[#「糊口」は底本では「口糊」]だが、糊口より先に、何か驚嘆に価《あたい》する事件に会いたいと思ってるが、いくら電車に乗って方々歩いても全く駄目だね。攫徒《すり》にさえ会わない」などと云うかと思うと、「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛《そくばく》だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地《いち》はどうでもいいから思う存分勝手な真似《まね》をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭《いや》に人を束縛するよ教育が」と忌々《いまいま》しそうに嘆息する事がある。須永は敬太郎のいずれの不平に対しても余り同情がないらしかった。第一彼の態度からしてが本当に真面目《まじめ》なのだか、またはただ空焦燥《からはしゃぎ》に焦燥いでいるのか見分がつかなかったのだろう。ある時須永はあまり敬太郎がこういうような浮ずった事ばかり言い募《つの》るので、「それじゃ君はどんな事がして見たいのだ。衣食問題は別として」と聞いた。敬太郎は警視庁の探偵見たような事がして見たいと答えた。
「じゃするが好いじゃないか、訳ないこった」
「ところがそうは行かない」
敬太郎は本気になぜ自分に探偵ができないかという理由を述べた。元来探偵なるものは世間の表面から底へ潜《もぐ》る社会の潜水夫のようなものだから、これほど人間の不思議を攫《つか》んだ職業はたんとあるまい。それに彼らの立場は、ただ他《ひと》の暗黒面を観察するだけで、自分と堕落してかかる危険性を帯びる必要がないから、なおの事都合がいいには相違ないが、いかんせんその目的がすでに罪悪の暴露《ばくろ》にあるのだから、あらかじめ人を陥《おとしい》れようとする成心の上に打ち立てられた職業である。そんな人の悪い事は自分にはできない。自分はただ人間の研究者|否《いな》人間の異常なる機関《からくり》が暗い闇夜《やみよ》に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺《なが》めていたい。――こういうのが敬太郎の主意であった。須永は逆《さから》わずに聞いていたが、これという批判の言葉も放たなかった。それが敬太郎には老成と見えながらその実平凡なのだとしか受取れなかった。しかも自分を相手にしないような落ちつき払った風のあるのを悪《にく》く思って別れた。けれども五日と経《た》たないうちにまた須永の宅《うち》へ行きたくなって、表へ出ると直《すぐ》神田行の電車に乗った。
二
須永《すなが》はもとの小川亭即ち今の天下堂という高い建物を目標《めじるし》に、須田町の方から右へ小さな横町を爪先上《つまさきのぼ》りに折れて、二三度不規則に曲った極《きわ》めて分り悪《にく》い所にいた。家並《いえなみ》の立て込んだ裏通りだから、山の手と違って無論屋敷を広く取る余地はなかったが、それでも門から玄関まで二間ほど御影《みかげ》の上を渡らなければ、格子先《こうしさき》の電鈴《ベル》に手が届かないくらいの一構《ひとかまえ》であった。もとから自分の持家《もちいえ》だったのを、一時親類の某《なにがし》に貸したなり久しく過ぎたところへ、父が死んだので、無人《ぶにん》の活計《くらし》には場所も広さも恰好《かっこう》だろうという母の意見から、駿河台《するがだい》の本宅を売払ってここへ引移ったのである。もっともそれからだいぶ手を入れた。ほとんど新築したも同然さとかつて須永が説明して聞かせた時に、敬太郎《けいたろう》はなるほどそうかと思って、二階の床柱や天井板《てんじょういた》を見廻した事がある。この二階は須永の書斎にするため、後から継《つ》ぎ足したので、風が強く吹く日には少し揺れる気味はあるが、ほかにこれと云って非の打ちようのない綺麗《きれい》に明かな四畳六畳|二間《ふたま》つづきの室《へや》であった。その室に坐《すわ》っていると、庭に植えた松の枝と、手斧目《ちょうなめ》の付いた板塀《いたべい》の上の方と、それから忍び返しが見えた。縁に出て手摺《てすり》から見下した時、敬太郎は松の根に一面と咲いた鷺草《さぎそう》を眺めて、あの白いものは何だと須永に聞いた事もあった。
彼は須永を訪問してこの座敷に案内されるたびに、書生と若旦那の区別を判然と心に呼び起さざるを得なかった。そうしてこう小ぢんまり片づいて暮している須永を軽蔑《けいべつ》すると同時に、閑静ながら余裕《よゆう》のあるこの友の生活を羨《うら》やみもした。青年があんなでは駄目だと考えたり、またあんなにもなって見たいと思ったりして、今日も二つの矛盾からでき上った斑《まだら》な興味を懐《ふところ》に、彼は須永を訪問したのである。
例の小路《こうじ》を二三度曲折して、須永の住居《すま》っ
前へ
次へ
全116ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング