に僕を誤解しないように願います」
 森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている由《よし》を書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今から楽《たのしみ》にして待っているとつけ加えていた。そうしてその後《あと》へ自分が旅行した満洲《まんしゅう》地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴《ふいちょう》していた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春《ちょうしゅん》とかにある博打場《ばくちば》の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼《ちまなこ》になりながら、一種の臭気《しゅうき》を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰《なぐさ》み半分わざと垢《あか》だらけな着物を着て、こっそりここへ出入《しゅつにゅう》するというんだから、森本だってどんな真似《まね》をしたか分らないと敬太郎は考えた。
 手紙の末段には盆栽《ぼんさい》の事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂《どうざか》の植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などに載《の》せておいて朝夕《あさゆう》眺《なが》めるにはちょうど手頃のものです。あれを献上《けんじょう》するからあなたの室《へや》へ持っていらっしゃい。もっとも雷獣《らいじゅう》とそうしてズクは両人共|極《きわ》めて不風流|故《ゆえ》、床の間の上へ据《す》えたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入《かさいれ》に、僕の洋杖《ステッキ》が差さっているはずです。あれも価格《ねだん》から云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」
 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出《ひきだし》へ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入《でいり》の都度《つど》、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。


     停留所

        一

 敬太郎《けいたろう》に須永《すなが》という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌《だいきらい》で、法律を修《おさ》めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義《たいえいしゅぎ》の男であった。少くとも敬太郎にはそう見えた。もっとも父はよほど以前に死んだとかで、今では母とたった二人ぎり、淋《さみ》しいような、また床《ゆか》しいような生活を送っている。父は主計官としてだいぶ好い地位にまで昇《のぼ》った上、元来が貨殖《かしょく》の道に明らかな人であっただけ、今では母子共《おやことも》衣食の上に不安の憂《うれい》を知らない好い身分である。彼の退嬰主義も半《なか》ばはこの安泰な境遇に慣《な》れて、奮闘の刺戟《しげき》を失った結果とも見られる。というものは、父が比較的立派な地位にいたせいか、彼には世間体《せけんてい》の好いばかりでなく、実際ためになる親類があって、いくらでも出世の世話をしてやろうというのに、彼は何だかだと手前勝手ばかり並べて、今もってぐずぐずしているのを見ても分る。
「そう贅沢《ぜいたく》ばかり云ってちゃもったいない。厭《いや》なら僕に譲るがいい」と敬太郎は冗談《じょうだん》半分に須永を強請《せび》ることもあった。すると須永は淋《さび》しそうなまた気の毒そうな微笑を洩《も》らして、「だって君じゃいけないんだから仕方がないよ」と断るのが常であった。断られる敬太郎は冗談にせよ好い心持はしなかった。おれはおれでどうかするという気概も起して見た。けれども根が執念深《しゅうねんぶか》くない性質《たち》だから、これしきの事で須永に対する反抗心などが永く続きようはずがなかった。その上身分が定まらないので、気の落ちつく背景を有《も》たない彼は、朝から晩まで下宿の一《ひ》と間《ま》にじっと坐っている苦痛に堪《た》えなかった。用がなくっても半日は是非出て歩《あ》るいた。そうしてよく須永の家《うち》を訪問《おとず》れた。一つはいつ行っても大抵留守の事が
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