しい客が這入《はい》った。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審を抱《いだ》いた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上部《うわべ》は知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦燥《あせ》らない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気に狩《か》り歩《あ》るいていた。
 或る晩もその用で内幸町まで行って留守を食《く》ったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈《きはちじょう》の袢天《はんてん》で赤ん坊を負《おぶ》った婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉毛《まゆげ》の細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えば粋《いき》な部類に属する型だったが、どうしても袢天|負《おんぶ》をするという柄《がら》ではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前垂《まえだれ》の下から格子縞《こうしじま》か何かの御召《おめし》が出ているので、敬太郎はますます変に思った。外面《そと》は雨なので、五六人の乗客は皆|傘《かさ》をつぼめて杖《つえ》にしていた。女のは黒蛇目《くろじゃのめ》であったが、冷たいものを手に持つのが厭《いや》だと見えて、彼女はそれを自分の側《わき》に立て掛けておいた。その畳んだ蛇《じゃ》の目《め》の先に赤い漆《うるし》で加留多《かるた》と書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
 この黒人《くろうと》だか素人《しろうと》だか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃い眉《まゆ》を心持八の字に寄せて俯目勝《ふしめがち》な白い顔と、御召《おめし》の着物と、黒蛇の目に鮮《あざや》かな加留多という文字とが互違《たがいちがい》に敬太郎の神経を刺戟《しげき》した時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、顔質《かおだち》は悪い方じゃありませんでした。眉毛《まみえ》の濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中で憶《おも》い起しながら、加留多と書いた傘の所有主《もちぬし》を注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。

        十二

 好奇心に駆《か》られた敬太郎《けいたろう》は破るようにこの無名氏の書信を披《ひら》いて見た。すると西洋罫紙《せいようけいし》の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力《つと》めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣《らいじゅう》とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞《とどこ》おらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕の室《へや》に置いてある荷物を始末したら――行李《こり》の中には衣類その他がすっかり這入《はい》っていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者《くせもの》故《ゆえ》僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便《おんびん》に出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣|輩《はい》が食物《くいもの》にしたがるものですから、その辺《へん》はよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃ善《よ》くないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾《いかん》の至《いたり》だから、どうか雷獣ごときもののため
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