ている通りの角まで来ると、彼より先に一人の女が須永の門を潜《くぐ》った。敬太郎はただ一目《ひとめ》その後姿を見ただけだったが、青年に共通の好奇心と彼に固有の浪漫趣味《ロマンしゅみ》とが力を合せて、引き摺《ず》るように彼を同じ門前に急がせた。ちょっと覗《のぞ》いて見ると、もう女の影は消えていた。例の通り紅葉《もみじ》を引手《ひきて》に張り込んだ障子《しょうじ》が、閑静に閉《しま》っているだけなのを、敬太郎は少し案外にかつ物足らず眺《なが》めていたが、やがて沓脱《くつぬぎ》の上に脱ぎ捨てた下駄《げた》に気をつけた。その下駄はもちろん女ものであったが、行儀よく向うむきに揃《そろ》っているだけで、下女が手をかけて直した迹《あと》が少しも見えない。敬太郎は下駄の向《むき》と、思ったより早く上《あが》ってしまった女の所作《しょさ》とを継《つ》ぎ合わして、これは取次を乞わずに、独《ひと》りで勝手に障子を開けて這入《はい》った極《きわ》めて懇意の客だろうと推察した。でなければ家《うち》のものだが、それでは少し変である。須永の家《いえ》は彼と彼の母と仲働《なかばたら》きと下女の四人《よつたり》暮しである事を敬太郎はよく知っていたのである。
 敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から窺《うかが》うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文《あや》に二人の浪漫《ロマン》を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳《ききみみ》は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。艶《なま》めいた女の声どころか、咳嗽《せき》一つ聞えなかった。
「許嫁《いいなずけ》かな」
 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――母は仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚《めしたき》は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語《ささや》いている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸《こうしど》をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永も母も仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝《ひるね》をしている。女はそこへ這入《はい》ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑《きつねつき》のようにのそりと立っていた。

        三

 すると二階の障子《しょうじ》がすうと開《あ》いて、青い色の硝子瓶《ガラスびん》を提《さ》げた須永《すなが》の姿が不意に縁側《えんがわ》へ現われたので敬太郎《けいたろう》はちょっと吃驚《びっくり》した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉《のど》の周囲《まわり》に白いフラネルを捲《ま》いていた。手に提《さ》げたのは含嗽剤《がんそうざい》らしい。敬太郎は上を向いて、風邪《かぜ》を引いたのかとか何とか二三言葉を換《か》わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。須永はしまいに這入れと云った。敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。須永はほとんどその意味を覚《さと》らない人のごとく、軽く首肯《うなず》いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
 階段《はしごだん》を上《あが》る時、敬太郎は奥の部屋で微《かす》かに衣摺《きぬずれ》の音がするような気がした。二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞《たく》ましくしたという疚《や》ましさもあり、また面《めん》と向ってすぐとは云い悪《にく》い皮肉な覘《ねらい》を付けた自覚もあるので、今しがた君の家《うち》へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧《お》し隠すような風に、
「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼《かね》て須永から聞いている内幸町《うちさいわいちょう》の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目《まじめ》に頼んだ。叔父というのは須永の母の妹の連合《つれあい》で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有《も》っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉《か》りてどうしようという料簡《りょうけん》もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余《あんまり》進まないか
前へ 次へ
全116ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング