するのである。ところが市蔵は自我よりほかに当初から何物を有《も》っていない男である。彼の欠点を補なう――というより、彼の不幸を切りつめる生活の径路は、ただ内に潜《もぐ》り込まないで外に応ずるよりほかに仕方がないのである。しかるに彼を幸福にし得るその唯一の策を、僕は間接に彼から奪ってしまった。親類が恨《うら》むのはもっともである。僕は本人から恨まれないのをまだしもの仕合せと思っているくらいである。
 今からたしか一年ぐらい前の話だと思う。何しろ市蔵がまだ学校を出ない時の話だが、ある日偶然やって来て、ちょっと挨拶《あいさつ》をしたぎりすぐどこかへ見えなくなった事がある。その時僕はある人に頼まれて、書斎で日本の活花《いけばな》の歴史を調べていた。僕は調べものの方に気を取られて、彼の顔を出した時、やあとただふり返っただけであったが、それでも彼の血色がはなはだ勝《すぐ》れないのを苦にして、仕事の区切がつくや否や彼を探しに書斎を出た。彼は妻《さい》とも仲が善《よ》かったので、あるいは茶の間で話でもしている事かと思ったら、そこにも姿は見えなかった。妻に聞くと子供の部屋だろうというので、縁伝いに戸《ドアー》を開けると、彼は咲子の机の前に坐《すわ》って、女の雑誌の口絵に出ている、ある美人の写真を眺めていた。その時彼は僕を顧《かえり》みて、今こういう美人を発見して、先刻《さっき》から十分ばかり相対しているところだと告げた。彼はその顔が眼の前にある間、頭の中の苦痛を忘れて自《おのず》から愉快になるのだそうである。僕はさっそくどこの何者の令嬢かと尋ねた。すると不思議にも彼は写真の下に書いてある女の名前をまだ読まずにいた。僕は彼を迂闊《うかつ》だと云った。それほど気に入った顔ならなぜ名前から先に頭に入れないかと尋ねた。時と場合によれば、細君として申し受ける事も不可能でないと僕は思ったからである。しかるに彼はまた何の必要があって姓名や住所を記憶するかと云った風の眼使《めづかい》をして僕の注意を怪しんだ。
 つまり僕は飽《あ》くまでも写真を実物の代表として眺《なが》め、彼は写真をただの写真として眺めていたのである。もし写真の背後に、本当の位置や身分や教育や性情がつけ加わって、紙の上の肖像を活《い》かしにかかったなら、彼はかえって気に入ったその顔まで併《あわ》せて打ち棄ててしまったかも知れない。これが市蔵の僕と根本的に違うところである。

        三

 市蔵の卒業する二三カ月前、たしか去年の四月頃だったろうと思う。僕は彼の母から彼の結婚に関して、今までにない長時間の相談を受けた。姉の意思は固《もと》より田口の姉娘を彼の嫁として迎えたいという単純にしてかつ頑固《がんこ》なものであった。僕は女に理窟《りくつ》を聞かせるのを、男の恥のように思う癖があるので、むずかしい事はなるべく控えたが、何しろこういう問題について、できるだけ本人の自由を許さないのは親の義務に背《そむ》くのも同然だという意味を、昔風の彼女の腑《ふ》に落ちるように砕いて説明した。姉は御承知の通り極めて穏《おだ》やかな女ではあるが、いざとなると同じ意見を何度でもくり返して憚《はば》からない婦人に共通な特性を一人前以上に具《そな》えていた。僕は彼女の執拗《しつよう》を悪《にく》むよりは、その根気の好過《よす》ぎるところにかえって妙な憐《あわ》れみを催《もよお》した。それで、今親類中に、市蔵の尊敬しているものは僕よりほかにないのだから、ともかくも一遍呼び寄せてとくと話して見てくれぬかという彼女の請《こい》を快よく引受けた。
 僕がこの目的を果《はた》すために市蔵とこの座敷で会見を遂《と》げたのは、それから四日目の日曜の朝だと記憶する。彼は卒業試験間近の多忙を目の前に控えながら座に着いて、何試験なんかどうなったって構やしませんがと苦笑した。彼の説明によると、かねてその話は彼の母から何度も聞かされて、何度も決答をくり延ばした陳腐《ちんぷ》なものであった。もっとも彼のそれに対する態度は、問題の陳腐と反比例にすこぶる切なさそうに見えた。彼は最後に母から口説《くど》かれた時、卒業の上、どうとも解決するから、それまで待って呉《く》れろと母に頼んでおいたのだそうである。それをまだ試験も済まない先から僕に呼びつけられたので、多少迷惑らしく見えたばかりか、年寄は気が短かくって困ると言葉に出してまで訴えた。僕ももっともだと思った。
 僕の推測では、彼が学校を出るまでとかくの決答を延ばしたのは、そのうちに千代子の縁談が、自分よりは適当な候補者の上に纏《まと》いつくに違ないと勘定《かんてい》して、直接に母を失望させる代りに、周囲の事情が母の意思を翻《ひるが》えさせるため自然と彼女に圧迫を加えて来るのを待つ一種の逃避手段
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