分一人で見ているのである。
 須永の姉も田口の姉も、僕と市蔵の性質が余りよく似ているので驚ろいている。僕自身もどうしてこんな変り者が親類に二人|揃《そろ》ってできたのだろうかと考えては不思議に思う。須永の姉の料簡《りょうけん》では、市蔵の今日《こんにち》は全く僕の感化を受けた結果に過ぎないと見ているらしい。僕が姉の気に入らない点をいくらでも有《も》っている内で、最も彼女を不愉快にするものは、不明なる僕のわが甥《おい》に及ぼしたと認められているこの悪い影響である。僕は僕の市蔵に対する今日までの態度に顧《かえり》みて、この非難をもっともだと肯《がえん》ずる。それがために市蔵を田口家から疎隔したという不服もついでに承認して差支《さしつかえ》ない。ただ彼ら姉二人が僕と市蔵とを、同じ型からでき上った偏窟人《へんくつじん》のように見傚《みな》して、同じ眉《まゆ》を僕らの上に等しく顰《ひそ》めるのは疑もなく誤っている。
 市蔵という男は世の中と接触するたびに内へとぐろを捲《ま》き込む性質《たち》である。だから一つ刺戟《しげき》を受けると、その刺戟がそれからそれへと廻転して、だんだん深く細かく心の奥に喰い込んで行く。そうしてどこまで喰い込んで行っても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。しまいにはどうかしてこの内面の活動から逃《のが》れたいと祈るくらいに気を悩ますのだけれども、自分の力ではいかんともすべからざる呪《のろ》いのごとくに引っ張られて行く。そうしていつかこの努力のために斃《たお》れなければならない、たった一人で斃れなければならないという怖《おそ》れを抱《いだ》くようになる。そうして気狂《きちがい》のように疲れる。これが市蔵の命根《めいこん》に横《よこた》わる一大不幸である。この不幸を転じて幸《さいわい》とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲《ま》き出させるよりほかに仕方がない。外にある物を頭へ運び込むために眼を使う代りに、頭で外にある物を眺《なが》める心持で眼を使うようにしなければならない。天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美くしいものか、優《やさ》しいものか、を見出さなければならない。一口に云えば、もっと浮気《うわき》にならなければならない。市蔵は始め浮気を軽蔑《けいべつ》してかかった。今はその浮気を渇望している。彼は自己の幸福のために、どうかして翩々《へんぺん》たる軽薄才子になりたいと心《しん》から神に念じているのである。軽薄に浮かれ得るよりほかに彼を救う途《みち》は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、すでに承知していた。けれども実行はいまだにできないでもがいている。

        二

 僕はこういう市蔵を仕立て上げた責任者として親類のものから暗《あん》に恨《うら》まれているが、僕自身もその点については疚《や》ましいところが大いにあるのだから仕方がない。僕はつまり性格に応じて人を導く術《すべ》を心得なかったのである。ただ自分の好尚《こうしょう》を移せるだけ市蔵の上に移せばそれで充分だという無分別から、勝手しだいに若いものの柔らかい精神を動かして来たのが、すべての禍《わざわい》の本《もと》になったらしい。僕がこの過失に気がついたのは今から二三年前である。しかし気がついた時はもう遅かった。僕はただなす能力のない手を拱《こま》ぬいて、心の中《うち》で嘆息しただけであった。
 事実を一言《いちごん》でいうと、僕の今やっているような生活は、僕に最も適当なので、市蔵にはけっして向かないのである。僕は本来から気の移りやすくでき上った、極《きわ》めて安価な批評をすれば、生れついての浮気《うわき》ものに過ぎない。僕の心は絶えず外に向って流れている。だから外部の刺戟《しげき》しだいでどうにでもなる。と云っただけではよく腑《ふ》に落ちないかも知れないが、市蔵は在来の社会を教育するために生れた男で、僕は通俗な世間から教育されに出た人間なのである。僕がこのくらい好い年をしながら、まだ大変若いところがあるのに引き更《か》えて、市蔵は高等学校時代からすでに老成していた。彼は社会を考える種に使うけれども、僕は社会の考えにこっちから乗り移って行くだけである。そこに彼の長所があり、かねて彼の不幸が潜《ひそ》んでいる。そこに僕の短所があり、また僕の幸福が宿っている。僕は茶の湯をやれば静かな心持になり、骨董《こっとう》を捻《ひね》くれば寂《さ》びた心持になる。そのほか寄席《よせ》、芝居、相撲《すもう》、すべてその時々の心持になれる。その結果あまり眼前の事物に心を奪われ過ぎるので、自然に己《おのれ》なき空疎な感に打たれざるを得ない。だからこんな超然生活を営んで強いて自我を押し立てようと
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