た。けれども彼女の強さは単に優《やさ》しい一図から出た女気《おんなぎ》の凝《こ》り塊《かたま》りとのみ解釈していた。ところが今僕の前に現われた彼女は、ただ勝気に充ちただけの、世間にありふれた、俗っぽい婦人としか見えなかった。僕は心を動かすところなく、彼女の涙の間からいかなる説明が出るだろうと待ち設けた。彼女の唇《くちびる》を洩《も》れるものは、自己の体面を飾る強弁よりほかに何もあるはずがないと、僕は固く信じていたからである。彼女は濡《ぬ》れた睫毛《まつげ》を二三度|繁叩《しばたた》いた。
「あなたはあたしを御転婆《おてんば》の馬鹿だと思って始終《しじゅう》冷笑しているんです。あなたはあたしを……愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……」
「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで宜《よ》うござんす。何も貰《もら》って下さいとは云やしません。ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」
 彼女はここへ来て急に口籠《くちごも》った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まだ覚《さと》れなかった。「御前に対して」と半《なか》ば彼女を促《うな》がすように問をかけた。彼女は突然物を衝《つ》き破った風に、「なぜ嫉妬《しっと》なさるんです」と云い切って、前よりは劇《はげ》しく泣き出した。僕はさっと血が顔に上《のぼ》る時の熱《ほて》りを両方の頬《ほお》に感じた。彼女はほとんどそれを注意しないかのごとくに見えた。
「あなたは卑怯《ひきょう》です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡《りょうけん》さえあなたはすでに疑《うたぐ》っていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたは他《ひと》の招待に応じておきながら、なぜ平生《ふだん》のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を掻《か》いたも同じ事です。あなたはあたしの宅《うち》の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」
「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」
「男は卑怯だから、そう云う下らない挨拶《あいさつ》ができるんです。高木さんは紳士だからあなたを容《い》れる雅量がいくらでもあるのに、あなたは高木さんを容れる事がけっしてできない。卑怯だからです」


     松本の話

        一

 それから市蔵と千代子との間がどうなったか僕は知らない。別にどうもならないんだろう。少なくとも傍《はた》で見ていると、二人の関係は昔から今日《こんにち》に至るまで全く変らないようだ。二人に聞けばいろいろな事を云うだろうが、それはその時限りの気分に制せられて、まことしやかに前後に通じない嘘《うそ》を、永久の価値あるごとく話すのだと思えば間違ない。僕はそう信じている。
 あの事件ならその当時僕も聞かされた。しかも両方から聞かされた。あれは誤解でも何でもない。両方でそう信じているので、そうしてその信じ方に両方とも無理がないのだから、極《きわ》めてもっともな衝突と云わなければならない。したがって夫婦になろうが、友達として暮らそうが、あの衝突だけはとうてい免《まぬ》かれる事のできない、まあ二人の持って生れた、因果《いんが》と見るよりほかに仕方がなかろう。ところが不幸にも二人はある意味で密接に引きつけられている。しかもその引きつけられ方がまた傍《はた》のものにどうする権威もない宿命の力で支配されているんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用いると、彼らは離れるために合い、合うために離れると云った風の気の毒な一対《いっつい》を形づくっている。こう云って君に解るかどうか知らないが、彼らが夫婦になると、不幸を醸《かも》す目的で夫婦になったと同様の結果に陥《おち》いるし、また夫婦にならないと不幸を続ける精神で夫婦にならないのと択《えら》ぶところのない不満足を感ずるのである。だから二人の運命はただ成行《なりゆき》に任せて、自然の手で直接に発展させて貰《もら》うのが一番上策だと思う。君だの僕だのが何のかのと要《い》らぬ世話を焼くのはかえって当人達のために好くあるまい。僕は知っての通り、市蔵から見ても千代子から見ても他人ではない。ことに須永《すなが》の姉からは、二人の身分について今まで頼まれたり相談を受けたりした例《ためし》は何度もある。けれども天の手際《てぎわ》で旨《うま》く行かないものを、どうして僕の力で纏《まと》める事ができよう。つまり姉は無理な夢を自
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