みに過ぎなかった。その代り千代子が常に畏《おそ》れる点を、幸《さいわい》にして僕はただ一つ有《も》っていた。それは僕の無口である。彼女のように万事明けっ放しに腹を見せなければ気のすまない者から云うと、いつでも、しんねりむっつりと構えている僕などの態度は、けっして気に入るはずがないのだが、そこにまた妙な見透《みす》かせない心の存在が仄《ほの》めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜く事のできない、したがって軽蔑しながらもどこかに恐ろしいところを有った男として、ある意味の尊敬を払っていたのである。これは公《おおや》けにこそ明言しないが、向うでも腹の底で正式に認めるし、僕も冥々《めいめい》のうちに彼女から僕の権利として要求していた事実である。
ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを強《あなが》ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今まで僕がいまだかつて彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑《ぶべつ》が輝やいたのは疑いもない事実であった。僕は予期しない瞬間に、平手《ひらて》で横面《よこつら》を力任せに打たれた人のごとくにぴたりと止《と》まった。
「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」
彼女はこう云って、僕が両手で耳を抑《おさ》えたいくらいな高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。けれどもとっさの場合何という返事も出し得なかった。
「あなたは卑怯《ひきょう》だ」と彼女が次に云った。この突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼びつけて、と云ってやりたかった。けれども年弱な女に対して、向うと同じ程度の激語を使うのはまだ早過ぎると思って我慢した。千代子もそれなり黙った。僕はようやくにして「なぜ」というわずか二字の問をかけた。すると千代子の濃い眉《まゆ》が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚していながら、たまたま他《ひと》の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠すために、取《と》り繕《つく》ろって空《そら》っとぼけるものとこの問を解釈したらしい。
「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」
「解らないから聞かしておくれ」と僕が云った。僕は階下《した》に母を控えているし、感情に訴える若い女の気質もよく呑《の》み込んだつもりでいたから、できるだけ相手の気を抜いて話を落ちつかせるために、その時の僕としては、ほとんど無理なほどの、低いかつ緩《ゆる》い調子を取ったのであるが、それがかえって千代子の気に入らなかったと見える。
「それが解らなければあなた馬鹿よ」
僕はおそらく平生《いつも》より蒼《あお》い顔をしたろうと思う。自分ではただ眼を千代子の上にじっと据《す》えた事だけを記憶している。その時何物も恐れない千代子の眼が、僕の視線と無言のうちに行き合って、両方共しばらくそこに止《と》まっていた事も記憶している。
三十五
「千代ちゃんのような活溌《かっぱつ》な人から見たら、僕見たいに引込思案《ひっこみじあん》なものは無論|卑怯《ひきょう》なんだろう。僕は思った事をすぐ口へ出したり、またはそのまま所作《しょさ》にあらわしたりする勇気のない、極《きわ》めて因循《いんじゅん》な男なんだから。その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが……」
「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」
「しかし軽蔑《けいべつ》はしているだろう。僕はちゃんと知ってる」
「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」
僕はことさらに彼女のこの言葉を肯定する必要を認めなかったから、わざと返事を控えた。
「あなたはあたしを学問のない、理窟《りくつ》の解らない、取るに足らない女だと思って、腹の中で馬鹿にし切ってるんです」
「それは御前が僕をぐずと見縊《みくび》ってるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云われても構わないつもりだが、いやしくも徳義上の意味で卑怯というなら、そりゃ御前の方が間違っている。僕は少なくとも千代ちゃんに関係ある事柄について、道徳上卑怯なふるまいをした覚《おぼえ》はないはずだ。ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに、卑怯という言葉を使われては、何だか道義的勇気を欠いた――というより、徳義を解しない下劣な人物のように聞えてはなはだ心持が悪いから訂正して貰いたい。それとも今いった意味で、僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう」
「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。僕はこれまで千代子を自分より強い女と認めてい
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