に過ぎないと思われた。僕は市蔵にそうじゃ無いかと聞いた。市蔵はそうだと答えた。僕は彼にどうしても母を満足させる気はないかと尋ねた。彼は何事によらず母を満足させたいのは山々であると答えた。けれども千代子を貰《もら》おうとはけっして云わなかった。意地ずくで貰わないのかと聞いたら、あるいはそうかも知れないと云い切った。もし田口がやっても好いと云い、千代子が来ても好いと云ったらどうだと念を押したら、市蔵は返事をしずに黙って僕の顔を眺《なが》めていた。僕は彼のこの顔を見ると、けっして話を先へ進める気になれないのである。畏怖《いふ》というと仰山《ぎょうさん》すぎるし、同情というとまるで憐《あわ》れっぽく聞こえるし、この顔から受ける僕の心持は、何と云っていいかほとんど分らないが、永久に相手を諦《あき》らめてしまわなければならない絶望に、ある凄味《すごみ》と優《やさ》し味《み》をつけ加えた特殊の表情であった。
市蔵はしばらくして自分はなぜこう人に嫌《きら》われるんだろうと突然意外な述懐をした。僕はその時ならないのと平生の市蔵に似合しからないのとで驚ろかされた。なぜそんな愚痴《ぐち》を零《こぼ》すのかと窘《たし》なめるような調子で反問を加えた。
「愚痴じゃありません。事実だから云うのです」
「じゃ誰が御前を嫌っているかい」
「現にそういう叔父さんからして僕を嫌っているじゃありませんか」
僕は再び驚ろかされた。あまり不思議だから二三度押問答の末推測して見ると、僕が彼に特有な一種の表情に支配されて話の進行を停止した時の態度を、全然彼に対する嫌悪《けんお》の念から出たと受けているらしかった。僕は極力彼の誤解を打破しに掛った。
「おれが何で御前を悪《にく》む必要があるかね。子供の時からの関係でも知れているじゃないか。馬鹿を云いなさんな」
市蔵は叱られて激した様子もなくますます蒼《あお》い顔をして僕を見つめた。僕は燐火《りんか》の前に坐《すわ》っているような心持がした。
四
「おれは御前の叔父だよ。どこの国に甥《おい》を憎《にく》む叔父があるかい」
市蔵はこの言葉を聞くや否やたちまち薄い唇《くちびる》を反《そ》らして淋《さみ》しく笑った。僕はその淋しみの裏に、奥深い軽侮の色を透《すか》し見た。自白するが、彼は理解の上において僕よりも優《すぐ》れた頭の所有者である。僕は百もそれを承知でいた。だから彼と接触するときには、彼から馬鹿にされるような愚《ぐ》をなるべく慎んで外に出さない用心を怠《おこた》らなかった。けれども時々は、つい年長者の傲《おご》る心から、親しみの強い彼を眼下《がんか》に見下《みくだ》して、浅薄と心付《こころづき》ながら、その場限りの無意味にもったいをつけた訓戒などを与える折も無いではなかった。賢《かし》こい彼は僕に恥を掻《か》かせるために、自分の優越を利用するほど、品位を欠いた所作《しょさ》をあえてし得ないのではあるが、僕の方ではその都度《つど》彼に対するこっちの相場が下落して行くような屈辱を感ずるのが例であった。僕はすぐ自分の言葉を訂正しにかかった。
「そりゃ広い世の中だから、敵同志《かたきどうし》の親子もあるだろうし、命を危《あや》め合う夫婦もいないとは限らないさ。しかしまあ一般に云えば、兄弟とか叔父甥とかの名で繋《つな》がっている以上は、繋がっているだけの親しみはどこかにあろうじゃないか。御前は相応の教育もあり、相応の頭もある癖に、何だか妙に一種の僻《ひが》みがあるよ。それが御前の弱点だ。是非直さなくっちゃいけない。傍《はた》から見ていても不愉快だ」
「だから叔父さんまで嫌《きら》っていると云うのです」
僕は返事に窮した。自分で気のつかない自分の矛盾を今市蔵から指摘されたような心持もした。
「僻みさえさらりと棄《す》ててしまえば何でもないじゃないか」と僕はさも事もなげに云って退《の》けた。
「僕に僻《ひがみ》があるでしょうか」と市蔵は落ちついて聞いた。
「あるよ」と僕は考えずに答えた。
「どういうところが僻んでいるでしょう。判然《はっきり》聞かして下さい」
「どういうところがって、――あるよ。あるからあると云うんだよ」
「じゃそういう弱点があるとして、その弱点はどこから出たんでしょう」
「そりゃ自分の事だから、少し自分で考えて見たらよかろう」
「あなたは不親切だ」と市蔵が思い切った沈痛な調子で云った。僕はまずその調子に度《ど》を失った。次に彼の眼の色を見て萎縮《いしゅく》した。その眼はいかにも恨《うら》めしそうに僕の顔を見つめていた。僕は彼の前に一言《いちごん》の挨拶《あいさつ》さえする勇気を振い起し得なかった。
「僕はあなたに云われない先から考えていたのです。おっしゃるまでもなく自分の事だから考えていた
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