は母の命ずるまま軒端《のきば》に七草《ななくさ》を描《か》いた岐阜提灯《ぎふぢょうちん》をかけて、その中に細い蝋燭《ろうそく》を点《つ》けた。熱いから電灯を消そうと発議《ほつぎ》した千代子は、遠慮なく畳の上を暗くした。風のない月が高く上《のぼ》った。柱に凭《もた》れていた母が鎌倉を思い出すと云った。電車の音のする所で月を看《み》るのは何だかおかしい気がすると、この間から海辺に馴染《なず》んだ千代子が評した。僕は先刻《さっき》の籐椅子《といす》の上に腰をおろして団扇《うちわ》を使っていた。作《さく》が下から二度ばかり上って来た。一度は煙草盆《たばこぼん》の火を入れ更《か》えて、僕の足の下に置いて行った。二返目には近所から取り寄せた氷菓子《アイスクリーム》を盆に載《の》せて持って来た。僕はそのたびごと階級制度の厳重な封建の代《よ》に生れたように、卑しい召使の位置を生涯《しょうがい》の分と心得ているこの作と、どんな人の前へ出ても貴女《レデー》としてふるまって通るべき気位を具《そな》えた千代子とを比較しない訳に行かなかった。千代子は作が出て来ても、作でないほかの女が出て来たと同じように、なんにも気に留めなかった。作の方ではいったん起《た》って梯子段《はしごだん》の傍《そば》まで行って、もう降りようとする間際《まぎわ》にきっと振り返って、千代子の後姿《うしろすがた》を見た。僕は自分が鎌倉で高木を傍《そば》に見て暮した二日間を思い出して、材料がないから何も考えないと明言した作に、千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐《あわ》れに眺《なが》めた。
「高木はどうしたろう」という問が僕の口元までしばしば出た。けれども単なる消息の興味以外に、何かためにする不純なものが自分を前に押し出すので、その都度《つど》卑怯だと遠くで罵《ののし》られるためか、つい聞くのをいさぎよしとしなくなった。それに千代子が帰って母だけになりさえすれば、彼の話は遠慮なくできるのだからとも考えた。しかし実を云うと、僕は千代子の口から直下《じか》に高木の事を聞きたかったのである。そうして彼女が彼をどう思っているか、それを判切《はっきり》胸に畳み込んでおきたかったのである。これは嫉妬《しっと》の作用なのだろうか。もしこの話を聞くものが、嫉妬だというなら、僕には少しも異存がない。今の料簡《りょうけん》で考えて見ても、どうもほかの名はつけ悪《にく》いようである。それなら僕がそれほど千代子に恋していたのだろうか。問題がそう推移すると、僕も返事に窮《きゅう》するよりほかに仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を脈搏《みゃくはく》の上に感じていなかったからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深《しっとぶか》い訳になるが、あるいはそうかも知れない。しかしもっと適当に評したら、おそらく僕本来のわがままが源因なのだろうと思う。ただ僕は一言《いちごん》それにつけ加えておきたい。僕から云わせると、すでに鎌倉を去った後《あと》なお高木に対しての嫉妬心がこう燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりでなく、千代子自身に重い責任があったのである。相手が千代子だから、僕の弱点がこれほどに濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚《はばか》らない。では千代子のどの部分が僕の人格を堕落させるだろうか。それはとても分らない。あるいは彼女の親切じゃないかとも考えている。
三十一
千代子の様子はいつもの通り明《あけ》っ放《ぱな》しなものであった。彼女はどんな問題が出ても苦もなく口を利《き》いた。それは必竟《ひっきょう》腹の中に何も考えていない証拠《しょうこ》だとしか取れなかった。彼女は鎌倉へ行ってから水泳を自習し始めて、今では背の立たない所まで行くのが楽みだと云った。それを用心深い百代子が剣呑《けんのん》がって、詫《あや》まるように悲しい声を出して止《と》めるのが面白いと云った。その時母は半《なか》ば心配で半ば呆《あき》れたような顔をして、「何ですね女の癖にそんな軽機《かるはずみ》な真似をして。これからは後生《ごしょう》だから叔母さんに免じて、あぶない悪ふざけは止《よ》しておくれよ」と頼んでいた。千代子はただ笑いながら、大丈夫よと答えただけであったが、ふと縁側《えんがわ》の椅子に腰を掛けている僕を顧《かえり》みて、市《いっ》さんもそう云う御転婆《おてんば》は嫌《きらい》でしょうと聞いた。僕はただ、あんまり好きじゃないと云って、月の光の隈《くま》なく落ちる表を眺《なが》めていた。もし僕が自分の品格に対して尊敬を払う事を忘れたなら、「しかし高木さんには気に入るんだろう」という言葉をその後《あと》にきっとつけ加えたに違ない。そこまで引き摺《ず》られなかったのは、僕の体面上ま
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