ちゃわん》を膳《ぜん》の上に置きながら、作の顔を見て尊《たっ》とい感じを起した。
「作御前でもいろいろ物を考える事があるかね」
「私なんぞ別に何も考えるほどの事がございませんから」
「考えないかね。それが好いね。考える事がないのが一番だ」
「あっても智慧《ちえ》がございませんから、筋道が立ちません。全く駄目でございます」
「仕合せだ」
僕は思わずこう云って作を驚ろかした。作は突然僕から冷かされたとでも思ったろう。気の毒な事をした。
その夕暮に思いがけない母が出し抜けに鎌倉から帰って来た。僕はその時|日《ひ》の限りかけた二階の縁に籐椅子《といす》を持ち出して、作が跣足《はだし》で庭先へ水を打つ音を聞いていた。下へ降《お》りて玄関へ出た時、僕は母を送って来るべきはずの吾一の代りに、千代子が彼女の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》ったのを見て非常に驚ろいた。僕は籐椅子の上で千代子の事を全く考えずにいたのである。考えても彼女と高木とを離す事はできなかったのである。そうして二人は当分鎌倉の舞台を動き得ないものと信じていたのである。僕は日に焼けて心持色の黒くなったと思われる母と顔を見合わして挨拶《あいさつ》を取り替《かわ》す前に、まず千代子に向ってどうして来たのだと聞きたかった。実際僕はその通りの言葉を第一に用いたのである。
「叔母さんを送って来たのよ。なぜ。驚ろいて」
「そりゃありがとう」と僕は答えた。僕の千代子に対する感情は鎌倉へ行く前と、行ってからとでだいぶ違っていた。行ってからと帰って来てからとでもまただいぶ違っていた。高木といっしょに束《つか》ねられた彼女に対するのと、こう一人に切り離された彼女に対するのとでもまただいぶ違っていた。彼女は年を取った母を吾一に托するのが不安心だったから、自分で随《つ》いて来たのだと云って、作が足を洗っている間《ま》に、母の単衣《ひとえ》を箪笥《たんす》から出したり、それを旅行着と着換えさせたりなどして、元の千代子の通り豆《まめ》やかにふるまった。僕は母にあれから何か面白い事がありましたかと尋ねた。母は満足らしい顔をしながら、別にこれという珍らしい事も無かったと答えたが、「でもね久しぶりに好《い》い気保養《きほよう》をしました。御蔭で」と云った。僕にはそれが傍《そば》にいる千代子に対しての礼の言葉と聞こえた。僕は千代子に今日これからまた鎌倉へ帰るのかと尋ねた。
「泊って行くわ」
「どこへ」
「そうね。内幸町へ行っても好いけど、あんまり広過ぎて淋《さむ》しいから。――久しぶりにここへ泊ろうかしら、ねえ叔母さん」
僕には千代子が始めから僕の家に寝るつもりで出て来たように見えた。自白すれば僕はそこへ坐って十分と経たないうちに、また眼の前にいる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならないようになったのである。僕はそこに気がついた時、非常な不愉快を感じた。またそういう努力には自分の神経が疲れ切っている事も感じた。僕は自分が自分に逆《さか》らって余儀なくこう心を働かすのか。あるいは千代子が厭《いや》がる僕を無理に強いて動くようにするのか。どっちにしても僕は腹立たしかった。
「千代ちゃんが来ないでも吾一さんでたくさんだのに」
「だってあたし責任があるじゃありませんか。叔母さんを招待したのはあたしでしょう」
三十
「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って来て貰《もら》えば好かった」
「だから他《ひと》の云う事を聞いて、もっといらっしゃれば好《い》いのに」
「いいえあの時にさ。僕の帰った時にさ」
「そうするとまるで看護婦みたようね。好いわ看護婦でも、ついて来て上げるわ。なぜそう云わなかったの」
「云っても断られそうだったから」
「あたしこそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。たまに招待に応じて来ておきながら、厭《いや》にむずかしい顔ばかりしているんですもの。本当にあなたは少し病気よ」
「だから千代子について来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。
僕は母の帰るつい一時間前まで千代子の来る事を予想し得なかった。それは今改めてくり返す必要もないが、それと共に僕は母が高木について齎《もた》らす報道をほとんど確実な未来として予期していた。穏《おだ》やかな母の顔が不安と失望で曇る時の気の毒さも予想していた。僕は今この予期と全く反対の結果を眼の前に見た。彼らは二人とも常に変らない親しげな叔母|姪《めい》であった。彼らの各自《おのおの》は各自に特有な温《あたた》か味《み》と清々《すがすが》しさを、いつもの通り互いの上に、また僕の上に、心持よく加えた。
その晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に上《あが》って涼みながら話をした。僕
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