だ仕合せであった。
 千代子はかくのごとく明けっ放しであった。けれども夜が更《ふ》けて、母がもう寝ようと云い出すまで、彼女は高木の事をとうとう一口も話頭に上《のぼ》せなかった。そこに僕ははなはだしい故意《こい》を認めた。白い紙の上に一点の暗い印気《インキ》が落ちたような気がした。鎌倉へ行くまで千代子を天下の女性《にょしょう》のうちで、最も純粋な一人《いちにん》と信じていた僕は、鎌倉で暮したわずか二日の間に、始めて彼女の技巧《アート》を疑い出したのである。その疑《うたがい》が今ようやく僕の胸に根をおろそうとした。
「なぜ高木の話をしないのだろう」
 僕は寝ながらこう考えて苦しんだ。同時にこんな問題に睡眠の時間を奪われる愚《おろか》さを自分でよく承知していた。だから苦しむのが馬鹿馬鹿しくてなお癇《かん》が起った。僕は例の通り二階に一人寝ていた。母と千代子は下座敷に蒲団《ふとん》を並べて、一つ蚊帳《かや》の中に身を横たえた。僕はすやすや寝ている千代子を自分のすぐ下に想像して、必竟《ひっきょう》のつそつ苦しがる僕は負けているのだと考えない訳に行かなくなった。僕は寝返りを打つ事さえ厭《いや》になった。自分がまだ眠られないという弱味を階下《した》へ響かせるのが、勝利の報知として千代子の胸に伝わるのを恥辱と思ったからである。
 僕がこうして同じ問題をいろいろに考えているうちに、同じ問題が僕にはいろいろに見えた。高木の名前を口へ出さないのは、全く彼女の僕に対する好意に過ぎない。僕に気を悪くさせまいと思う親切から彼女はわざとそれだけを遠慮したのである。こう解釈すると鎌倉にいた時の僕は、あれほど単純な彼女をして、僕の前に高木の二字を公《おおや》けにする勇気を失わしめたほど、不合理に機嫌を悪くふるまったのだろう。もしそうだとすれば、自分は人の気を悪くするために、人の中へ出る、不愉快な動物である。宅《うち》へ引込《ひっこ》んで交際《つきあい》さえしなければそれで宜《い》い。けれどももし親切を冠《かむ》らない技巧《アート》が彼女の本義なら……。僕は技巧という二字を細かに割って考えた。高木を媒鳥《おとり》に僕を釣るつもりか。釣るのは、最後の目的もない癖に、ただ僕の彼女に対する愛情を一時的に刺戟《しげき》して楽しむつもりか。あるいは僕にある意味で高木のようになれというつもりか。そうすれば僕を愛しても好いというつもりか。あるいは高木と僕と戦うところを眺《なが》めて面白かったというつもりか。または高木を僕の眼の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れというつもりか。――僕は技巧の二字をどこまでも割って考えた。そうして技巧なら戦争だと考えた。戦争ならどうしても勝負に終るべきだと考えた。
 僕は寝つかれないで負けている自分を口惜《くや》しく思った。電灯は蚊帳を釣るとき消してしまったので、室《へや》の中に隙間《すきま》もなく蔓延《はびこ》る暗闇《くらやみ》が窒息するほど重苦しく感ぜられた。僕は眼の見えないところに眼を明けて頭だけ働らかす苦痛に堪《た》えなくなった。寝返りさえ慎んで我慢していた僕は、急に起《た》って室《へや》を明るくした。ついでに縁側《えんがわ》へ出て雨戸を一枚細目に開けた。月の傾むいた空の下には動く風もなかった。僕はただ比較的冷かな空気を肌と咽喉《のど》に受けただけであった。

        三十二

 翌日《あくるひ》はいつも一人で寝ている時より一時間半も早く眼が覚《さ》めた。すぐ起きて下へ降りると、銀杏返《いちょうがえ》しの上へ白地の手拭《てぬぐい》を被《かぶ》って、長火鉢《ながひばち》の灰を篩《ふる》っていた作《さく》が、おやもう御目覚《おめざめ》でと云いながら、すぐ顔を洗う道具を風呂場へ並べてくれた。僕は帰りに埃《ほこり》だらけの茶の間を爪先《つまさき》で通り抜けて玄関へ出た。その時ついでに二人の寝ている座敷を蚊帳越《かやご》しに覗《のぞ》いて見たら、目敏《めざと》い母も昨日《きのう》の汽車の疲が出たせいか、まだ静かな眠《ねむり》を貪《むさ》ぼっていた。千代子は固《もと》より夢の底に埋《うず》まっているように正体なく枕の上に首を落していた。僕は目的《あて》もなく表へ出た。朝の散歩の趣《おもむき》を久しく忘れていた僕には、常に変わらない町の色が、暑さと雑沓《ざっとう》とに染めつけられない安息日のごとく穏《おだ》やかに見えた。電車の線路が研《と》ぎ澄まされた光を真直《まっすぐ》に地面の上に伸ばすのも落ちついた感じであった。けれども僕は散歩がしたくって出たのではなかった。ただ眼が早く覚《さ》め過ぎて、中有《はした》に延びた命の断片を、運動で埋《う》めるつもりで歩くのだから、それほどの興味は空にも地にも乃至《ないし》町にも見出す事ができな
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