を奪いにくる煩《わず》らわしさに悩んだのである。
 彼女は時によると、天下に只一人《ただいちにん》の僕を愛しているように見えた。僕はそれでも進む訳に行かないのである。しかし未来に眼を塞《ふさ》いで、思い切った態度に出ようかと思案しているうちに、彼女はたちまち僕の手から逃れて、全くの他人と違わない顔になってしまうのが常であった。僕が鎌倉で暮した二日の間に、こういう潮《しお》の満干《みちひ》はすでに二三度あった。或時は自分の意志でこの変化を支配しつつ、わざと近寄ったり、わざと遠退《とおの》いたりするのでなかろうかという微《かす》かな疑惑をさえ、僕の胸に煙らせた。そればかりではない。僕は彼女の言行を、一《いつ》の意味に解釈し終ったすぐ後《あと》から、まるで反対の意味に同じものをまた解釈して、その実《じつ》どっちが正しいのか分らないいたずらな忌々《いまいま》しさを感じた例《ためし》も少なくはなかった。
 僕はこの二日間に娶《めと》るつもりのない女に釣られそうになった。そうして高木という男がいやしくも眼の前に出没する限りは、厭《いや》でもしまいまで釣られて行きそうな心持がした。僕は高木に対して競争心を有たないと先に断ったが、誤解を防ぐために、もう一度同じ言葉をくり返したい。もし千代子と高木と僕と三人が巴になって恋か愛か人情かの旋風《つむじかぜ》の中に狂うならば、その時僕を動かす力は高木に勝とうという競争心でない事を僕は断言する。それは高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければいられない神経作用と同じ物だと断言する。結果が高木に対して勝つか負けるかに帰着する上部《うわべ》から云えば、競争と見えるかも知れないが、動力は全く独立した一種の働きである。しかもその動力は高木がいさえしなければけっして僕を襲《おそ》って来ないのである。僕はその二日間に、この怪しい力の閃《きらめき》を物凄《ものすご》く感じた。そうして強い決心と共にすぐ鎌倉を去った。
 僕は強い刺戟《しげき》に充《み》ちた小説を読むに堪《た》えないほど弱い男である。強い刺戟に充ちた小説を実行する事はなおさらできない男である。僕は自分の気分が小説になりかけた刹那《せつな》に驚ろいて、東京へ引き返したのである。だから汽車の中の僕は、半分は優者で半分は劣者であった。比較的乗客の少ない中等列車のうちで、僕は自分と書き出して自分と裂き棄《す》てたようなこの小説の続きをいろいろに想像した。そこには海があり、月があり、磯《いそ》があった。若い男の影と若い女の影があった。始めは男が激《げき》して女が泣いた。後《あと》では女が激して男が宥《なだ》めた。ついには二人手を引き合って音のしない砂の上を歩いた。あるいは額《がく》があり、畳があり、涼しい風が吹いた。二人の若い男がそこで意味のない口論をした。それがだんだん熱い血を頬に呼び寄せて、ついには二人共自分の人格にかかわるような言葉使いをしなければすまなくなった。果《はて》は立ち上って拳《こぶし》を揮《ふる》い合った。あるいは……。芝居に似た光景は幾幕となく眼の前に描《えが》かれた。僕はそのいずれをも甞《な》め試ろみる機会を失ってかえって自分のために喜んだ。人は僕を老人みたようだと云って嘲《あざ》けるだろう。もし詩に訴えてのみ世の中を渡らないのが老人なら、僕は嘲けられても満足である。けれどももし詩に涸《か》れて乾《から》びたのが老人なら、僕はこの品評に甘んじたくない。僕は始終詩を求めてもがいているのである。

        二十六

 僕は東京へ帰ってからの気分を想像して、あるいは刺戟《しげき》を眼の前に控えた鎌倉にいるよりもかえって焦躁《いら》つきはしまいかと心配した。そうして相手もなく一人焦躁つく事のはなはだしい苦痛をいたずらに胸の中《うち》に描いて見た。偶然にも結果は他の一方に外《そ》れた。僕は僕の希望した通り、平生に近い落ちつきと冷静と無頓着《むとんじゃく》とを、比較的容易に、淋《さみ》しいわが二階の上に齎《もた》らし帰る事ができた。僕は新らしい匂《におい》のする蚊帳《かや》を座敷いっぱいに釣って、軒に鳴る風鈴《ふうりん》の音を楽しんで寝た。宵《よい》には町へ出て草花の鉢《はち》を抱《かか》えながら格子《こうし》を開ける事もあった。母がいないので、すべての世話は作《さく》という小間使がした。鎌倉から帰って、始めてわが家の膳《ぜん》に向った時、給仕のために黒い丸盆を膝《ひざ》の上に置いて、僕の前に畏《かし》こまった作の姿を見た僕は今更《いまさら》のように彼女と鎌倉にいる姉妹《きょうだい》との相違を感じた。作は固《もと》より好い器量の女でも何でもなかった。けれども僕の前に出て畏こまる事よりほかに何も知っていない彼女の姿が、僕にはいか
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