してくれた言葉であった。彼女は両手で桶《おけ》を抑《おさ》えたまま、船縁《ふなべり》から乗り出した身体《からだ》を高木の方へ捻《ね》じ曲げて、「道理《どうれ》で見えないのね」といったが、そのまま水に戯《たわむ》れるように、両手で抑えた桶をぶくぶく動かしていた。百代子が向うの方から御姉さんと呼んだ。吾一は居所も分らない蛸をむやみに突き廻した。突くには二間ばかりの細長い女竹《めだけ》の先に一種の穂先を着けた変なものを用いるのである。船頭は桶を歯で銜《くわ》えて、片手に棹《さお》を使いながら、船の動いて行くうちに、蛸の居所を探しあてるや否《いな》や、その長い竹で巧みにぐにゃぐにゃした怪物を突き刺した。
 蛸は船頭一人の手で、何疋《なんびき》も船の中に上がったが、いずれも同じくらいな大きさで、これはと驚ろくほどのものはなかった。始めのうちこそ皆《みんな》珍らしがって、捕《と》れるたびに騒いで見たが、しまいにはさすが元気な叔父も少し飽《あ》きて来たと見えて、「こう蛸ばかり捕っても仕方がないね」と云い出した。高木は煙草《たばこ》を吹かしながら、舟底《ふなぞこ》にかたまった獲物《えもの》を眺め始めた。
「千代ちゃん、蛸の泳いでるところを見た事がありますか。ちょっと来て御覧なさい、よっぽど妙ですよ」
 高木はこう云って千代子を招いたが、傍《そば》に坐っている僕の顔を見た時、「須永《すなが》さんどうです、蛸が泳いでいますよ」とつけ加えた。僕は「そうですか。面白いでしょう」と答えたなり直《すぐ》席を立とうともしなかった。千代子はどれと云いながら高木の傍へ行って新らしい座を占めた。僕は故《もと》の所から彼女にまだ泳いでるかと尋ねた。
「ええ面白いわ、早く来て御覧なさい」
 蛸は八本の足を真直に揃《そろ》えて、細長い身体を一気にすっすっと区切りつつ、水の中を一直線に船板に突き当るまで進んで行くのであった。中には烏賊《いか》のように黒い墨を吐《は》くのも交《まじ》っていた。僕は中腰になってちょっとその光景を覗いたなり故の席に戻ったが、千代子はそれぎり高木の傍を離れなかった。
 叔父は船頭に向って蛸はもうたくさんだと云った。船頭は帰るのかと聞いた。向うの方に大きな竹籃《たけかご》のようなものが二つ三つ浮いていたので、蛸ばかりで淋《さむ》しいと思った叔父は、船をその一つの側《わき》へ漕《こ》ぎ寄せさした。申し合せたように、舟中《ふねじゅう》立ち上って籃《かご》の内を覗くと、七八寸もあろうと云う魚が、縦横に狭い水の中を馳《か》け廻っていた。その或ものは水の色を離れない蒼《あお》い光を鱗《うろこ》に帯びて、自分の勢で前後左右に作る波を肉の裏に透《とお》すように輝やいた。
「一つ掬《すく》って御覧なさい」
 高木は大きな掬網《たま》の柄《え》を千代子に握らした。千代子は面白半分それを受取って水の中で動かそうとしたが、動きそうにもしないので、高木は己《おの》れの手を添えて二人いっしょに籃《かご》の中を覚束《おぼつか》なく攪《か》き廻した。しかし魚は掬《すく》えるどころではなかったので、千代子はすぐそれを船頭に返した。船頭は同じ掬網《たま》で叔父の命ずるままに何疋でも水から上へ択《よ》り出した。僕らは危怪《きかい》な蛸の単調を破るべく、鶏魚《いさき》、鱸《すずき》、黒鯛《くろだい》の変化を喜こんでまた岸に上《のぼ》った。

        二十五

 僕はその晩一人東京へ帰った。母はみんなに引きとめられて、帰るときには吾一か誰か送って行くという条件の下《もと》に、なお二三日鎌倉に留《とど》まる事を肯《がえ》んじた。僕はなぜ母が彼らの勧めるままに、人を好《よ》く落ちついているのだろうと、鋭どく磨《と》がれた自分の神経から推して、悠長《ゆうちょう》過ぎる彼女をはがゆく思った。
 高木にはそれから以後ついぞ顔を合せた事がなかった。千代子と僕に高木を加えて三《み》つ巴《ともえ》を描いた一種の関係が、それぎり発展しないで、そのうちの劣敗者に当る僕が、あたかも運命の先途《せんど》を予知したごとき態度で、中途から渦巻《うずまき》の外に逃《のが》れたのは、この話を聞くものにとって、定めし不本意であろう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り急いで纏《まとい》を撤したような心持がする。と云うと、僕に始からある目論見《もくろみ》があって、わざわざ鎌倉へ出かけたとも取れるが、嫉妬心《しっとしん》だけあって競争心を有《も》たない僕にも相応の己惚《うぬぼれ》は陰気な暗い胸のどこかで時々ちらちら陽炎《かげろ》ったのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。そうして千代子に対する己惚《うぬぼれ》をあくまで積極的に利用し切らせないために、他の思想やら感情やらが、入れ代り立ち替り雑然として吾心
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