ておいた。その嫉妬は程度において昨日《きのう》も今日《きょう》も同じだったかも知れないが、それと共に競争心はいまだかつて微塵《みじん》も僕の胸に萌《きざ》さなかったのである。僕も男だからこれから先いつどんな女を的《まと》に劇烈な恋に陥《おちい》らないとも限らない。しかし僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐《ふとこ》ろにして恋人を見棄ててしまうつもりでいる。男らしくないとも勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他《ひと》から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価《あたい》しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡《なび》かない女を無理に抱《だ》く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕《きずあと》を淋《さみ》しく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。
 僕は千代子にこう云った。――
「千代ちゃん行っちゃどうだ。あっちの方が広くって楽《らく》なようだから」
「なぜ、ここにいちゃ邪魔なの」
 千代子はそう云ったまま動こうとしなかった。僕には高木がいるからあっちへ行けというのだというような説明は、露骨と聞こえるにしろ、厭味《いやみ》と受取られるにしろ、全く口にする勇気は出なかった。ただ彼女からこう云われた僕の胸に、一種の嬉《うれ》しさが閃《ひら》めいたのは、口と腹とどう裏表になっているかを曝露《ばくろ》する好い証拠《しょうこ》で、自分で自分の薄弱な性情を自覚しない僕には痛い打撃であった。
 昨日《きのう》会った時よりは気のせいか少し控目になったように見える高木は、千代子と僕の間に起ったこの問答を聞きながら知らぬふりをしていた。船が磯《いそ》を離れたとき、彼は「好い案排《あんばい》に空模様が直って来ました。これじゃ日がかんかん照るよりかえって結構です。船遊びには持って来いという御天気で」というような事を叔父と話し合ったりした。叔父は突然大きな声を出して、「船頭、いったい何を捕《と》るんだ」と聞いた。叔父もその他のものも、この時まで何を捕るんだかいっこう知らずにいたのである。坊主頭の船頭は、粗末《ぞんざい》[#ルビの「ぞんざい」は底本では「そんざい」]な言葉で、蛸《たこ》を捕るんだと答えた。この奇抜な返事には千代子も百代子も驚ろくよりもおかしかったと見えて、たちまち声を出して笑った。
「蛸はどこにいるんだ」と叔父がまた聞いた。
「ここいらにいるんだ」と船頭はまた答えた。
 そうして湯屋の留桶《とめおけ》を少し深くしたような小判形《こばんなり》の桶の底に、硝子《ガラス》を張ったものを水に伏せて、その中に顔を突込《つっこ》むように押し込みながら、海の底を覗《のぞ》き出した。船頭はこの妙な道具を鏡《かがみ》と称《とな》えて、二つ三つ余分に持ち合わせたのを、すぐ僕らに貸してくれた。第一にそれを利用したのは船頭の傍《そば》に座を取った吾一と百代子であった。

        二十四

 鏡がそれからそれへと順々に回った時、叔父はこりゃ鮮《あざ》やかだね、何でも見えると非道《ひど》く感心していた。叔父は人間社会の事に大抵通じているせいか、万《よろず》に高《たか》を括《くく》る癖に、こういう自然界の現象に襲《おそ》われるとじき驚ろく性質《たち》なのである。自分は千代子から渡された鏡を受け取って、最後に一枚の硝子越に海の底を眺めたが、かねて想像したと少しも異なるところのない極《きわ》めて平凡な海の底が眼に入《い》っただけである。そこには小《ち》さい岩が多少の凸凹《とつおう》を描いて一面に連《つら》なる間に、蒼黒《あおぐろ》い藻草《もくさ》が限りなく蔓延《はびこ》っていた。その藻草があたかも生温《なまぬ》るい風に嬲《なぶ》られるように、波のうねりで静かにまた永久に細長い茎を前後に揺《うご》かした。
「市《いっ》さん蛸が見えて」
「見えない」
 僕は顔を上げた。千代子はまた首を突込《つっこ》んだ。彼女の被《かぶ》っていたへなへなの麦藁帽子《むぎわらぼうし》の縁《ふち》が水に浸《つか》って、船頭に操《あや》つられる船の勢に逆《さか》らうたびに、可憐な波をちょろちょろ起した。僕はその後《うしろ》に見える彼女の黒い髪と白い頸筋《くびすじ》を、その顔よりも美くしく眺めていた。
「千代ちゃんには、目付《めっ》かったかい」
「駄目よ。蛸《たこ》なんかどこにも泳いでいやしないわ」
「よっぽど慣れないとなかなか目付《めっ》ける訳に行かないんだそうです」
 これは高木が千代子のために説明
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