に慎《つつ》ましやかにいかに控目に、いかに女として憐《あわ》れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分ではすでに生意気過ぎると思い定めた様子で、おとなしく坐《すわ》っていたのである。僕は珍らしく彼女に優しい言葉を掛けた。そうして彼女に年はいくつだと聞いた。彼女は十九だと答えた。僕はまた突然嫁に行きたくはないかと尋ねた。彼女は赧《あか》い顔をして下を向いたなり、露骨な問をかけた僕を気の毒がらせた。僕と作とはそれまでほとんど用の口よりほかに利《き》いた事がなかったのである。僕は鎌倉から新らしい記憶を持って帰った反動として、その時始めて、自分の家に使っている下婢《かひ》の女らしいところに気がついた。愛とは固《もと》より彼女と僕の間に云い得べき言葉でない。僕はただ彼女の身の周囲《まわり》から出る落ちついた、気安い、おとなしやかな空気を愛したのである。
 僕が作のために安慰を得たと云っては、自分ながらおかしく聞こえる。けれども今考えて見てもそれよりほかの源因は全く考えつかないようだから、やっぱり作が――作がというより、その時の作が代表して僕に見せてくれた女性《にょしょう》のある方面の性質が、想像の刺戟《しげき》にすら焦躁立《いらだ》ちたがっていた僕の頭を静めてくれたのだろうと思う。白状すれば鎌倉の景色《けしき》は折々眼に浮かんだ。その景色のうちには無論人間が活動していた。ただそれが僕の遠くにいる、僕とはとても利害を一《いつ》にし得ない人間の活動らしく見えたのは幸福であった。
 僕は二階に上《のぼ》って書架の整理を始めた。綺麗好《きれいずき》な母が始終《しじゅう》気をつけて掃除を怠《おこ》たらなかったにかかわらず、一々書物を並べ直すとなると、思わぬ埃《ほこり》の色を、目の届かない陰に見つけるので、残らず揃《そろ》えるまでには、なかなか手間取った。僕は暑中に似合わしい閑事業として、なるべく時間のかかるように、気が向けば手にした本をいつまでも読み耽《ふけ》ってみようという気楽な方針で蝸牛《かたつむり》のごとく進行した。作は時ならない払塵《はたき》の音を聞きつけて、梯子段《はしごだん》から銀杏返《いちょうがえ》しの頭を出した。僕は彼女に書架の一部を雑巾《ぞうきん》で拭いて貰《もら》った。しかしいつまでかかるか分らない仕事の手伝を、済むまでさせるのも気の毒だと思って、すぐ階下《した》へ下げた。僕は一時間ほど書物を伏せたり立てたりして少し草臥《くたび》れたから煙草《たばこ》を吹かして休んでいると、作がまた梯子段から顔を出した。そうして、私でよろしければ何ぞ致しましょうかと尋ねた。僕は作に何かさせてやりたかった。不幸にして西洋文字の読めない彼女には手の出せない書物の整理なので、僕は気の毒だけれども、なに好いよと断ってまた下へ追いやった。
 作の事をそう一々云う必要もないが、つい前からの関係で、彼女のその時の行動を覚えていたから話したのである。僕は一本の巻煙草《まきたばこ》を呑み切った後《あと》でまた整理にかかった。今度は作のためにわれ一人《いちにん》の世界を妨《さま》たげられる虞《おそれ》なしに、書架の二段目を一気に片づけた。その時僕は久しく友達に借りて、つい返すのを忘れていた妙な書物を、偶然|棚《たな》の後《うしろ》から発見した。それはむしろ薄い小形の本だったので、ついほかのものの向側《むこうがわ》へ落ちたなり埃だらけになって、今日《きょう》まで僕の眼を掠《かす》めていたのである。

        二十七

 僕にこの本を貸してくれたものはある文学|好《ずき》の友達であった。僕はかつてこの男と小説の話をして、思慮の勝ったものは、万事に考え込むだけで、いっこう華《はな》やかな行動を仕切る勇気がないから、小説に書いてもつまらないだろうと云った。僕の平生からあまり小説を愛読しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考え考えしてぐずつくせいだろうとかねがね思っていたから、僕はついこういう質問がかけて見たくなったのである。その時彼は机上にあったこの本を指《さ》して、ここに書いてある主人公は、非常に目覚《めざま》しい思慮と、恐ろしく凄《すさ》まじい思い切った行動を具《そな》えていると告げた。僕はいったいどんな事が書いてあるのかと聞いた。彼はまあ読んで見ろと云って、その本を取って僕に渡した。標題にはゲダンケという独乙字《ドイツじ》が書いてあった。彼は露西亜物《ロシアもの》の翻訳だと教えてくれた。僕は薄い書物を手にしながら、重ねてその梗※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1−86−3]《こうがい》を彼に尋ねた。彼は梗※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1−86−3]などはどうでも好いと答えた。そうして中に
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