《かわい》がって上げるから安心なさいよ」と云った。僕は何とも答えなかった。涙も落さなかった。その時はそれですんだが、両親《ふたおや》に対する僕の記憶を、生長の後《のち》に至って、遠くの方で曇らすものは、二人のこの時の言葉であるという感じがその後《のち》しだいしだいに強く明らかになって来た。何の意味もつける必要のない彼らの言葉に、僕はなぜ厚い疑惑の裏打をしなければならないのか、それは僕自身に聞いて見てもまるで説明がつかなかった。時々は母に向って直《じか》に問い糺《ただ》して見たい気も起ったが、母の顔を見ると急に勇気が摧《くじ》けてしまうのが例《つね》であった。そうして心の中《うち》のどこかで、それを打ち明けたが最後、親しい母子《おやこ》が離れ離れになって、永久今の睦《むつ》ましさに戻る機会はないと僕に耳語《ささや》くものが出て来た。それでなくても、母は僕の真面目《まじめ》な顔を見守って、そんな事があったっけかねと笑いに紛《まぎ》らしそうなので、そう剥《は》ぐらかされた時の残酷な結果を予想すると、とても口へ出された義理じゃないと思い直しては黙っていた。
 僕は母に対してけっして柔順な息子《むすこ》ではなかった。父の死ぬ前に枕元へ呼びつけられて意見されただけあって、小さいうちからよく母に逆《さか》らった。大きくなって、女親だけになおさら優しくしてやりたいという分別ができた後《あと》でも、やっぱり彼女の云う通りにはならなかった。この二三年はことに心配ばかりかけていた。が、いくら勝手を云い合っても、母子《おやこ》は生れて以来の母子で、この貴《たっ》とい観念を傷つけられた覚《おぼえ》は、重手《おもで》にしろ浅手《あさで》にしろ、まだ経験した試しがないという考えから、もしあの事を云い出して、二人共後悔の瘢痕《はんこん》を遺《のこ》さなければすまない瘡《きず》を受けたなら、それこそ取返しのつかない不幸だと思っていた。この畏怖《いふ》の念は神経質に生れた僕の頭で拵《こし》らえるのかも知れないとも疑《うたぐ》って見た。けれども僕にはそれが現在よりも明らかな未来として存在している事が多かった。だから僕はあの時の父と母の言葉を、それなり忘れてしまう事ができなかったのを、今でも情なく感ずるのである。

        四

 父と母の間はどれほど円満であったか、僕には分らない。僕はまだ妻《さい》を貰った経験がないから、そう云う事を口にする資格はないかも知れないが、いかな仲の善《い》い夫婦でも、時々は気不味《きまず》い思をしあうのが人間の常だろうから、彼らだって永く添っているうちには面白くない汚点《しみ》を双方の胸の裏《うち》に見出しつつ、世間も知らず互も口にしない不満を、自分一人|苦《にが》く味わって我慢した場合もあったのだろうと思う。もっとも父は疳癖《かんぺき》の強い割に陰性な男だったし、母は長唄《ながうた》をうたう時よりほかに、大きな声の出せない性分《たち》なので、僕は二人の言い争そう現場を、父の死ぬまでいまだかつて目撃した事がなかった。要するに世間から云えば、僕らの宅《うち》ほど静かに整《とと》のった家庭は滅多《めった》に見当らなかったのである。あのくらい他《ひと》の悪口を露骨にいう松本の叔父でさえ、今だにそう認めて間違《まちがい》ないものと信じ切っている。
 母は僕に対して死んだ父を語るごとに、世間の夫のうちで最も完全に近いもののように説明してやまない。これは幾分か僕の腹の底に濁ったまま沈んでいる父の記憶を清めたいための弁護とも思われる。または彼女自身の記憶に時間の布巾《ふきん》をかけてだんだん光沢《つや》を出すつもりとも見られる。けれども慈愛に充《み》ちた親としての父を僕に紹介する時には、彼女の態度が全く一変する。平生僕が目《ま》のあたりに見ているあの柔和《にゅうわ》な母が、どうしてこう真面目《まじめ》になれるだろうと驚ろくくらい、厳粛な気象《きしょう》で僕を打ち据《す》える事さえあった。が、それは僕が中学から高等学校へ移る時分の昔である。今はいくら母に強請《せび》って同じ話をくり返して貰《もら》っても、そんな気高《けだか》い気分にはとてもなれない。僕の情操はその頃から学校を卒業するまでの間に、近頃の小説に出る主人公のように、まるで荒《すさ》み果てたのだろう。現代の空気に中毒した自分を呪《のろ》いたくなると、僕は時々もう一遍で好いから、母の前でああ云う崇高な感じに触れて見たいという望《のぞみ》を起すが、同時にその望みがとても遂《と》げられない過去の夢であるという悲しみも湧《わ》いて来る。
 母の性格は吾々《われわれ》が昔から用い慣れた慈母という言葉で形容さえすれば、それで尽きている。僕から見ると彼女はこの二字のために生れてこの二字のために死ぬ
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