と云っても差支《さしつかえ》ない。まことに気の毒であるが、それでも母は生活の満足をこの一点にのみ集注しているのだから、僕さえ充分の孝行ができれば、これに越した彼女の喜《よろこび》はないのである。が、もしその僕が彼女の意に背《そむ》く事が多かったら、これほどの不幸はまた彼女に取ってけっしてない訳になる。それを思うと僕は非常に心苦しい事がある。
 思い出したからここでちょっと云うが、僕は生れてからの一人息子ではない。子供の時分に妙《たえ》ちゃんという妹《いもと》と毎日遊んだ事を覚えている。その妹は大きな模様のある被布《ひふ》を平生《ふだん》着て、人形のように髪を切り下げていた。そうして僕の事を常に市蔵ちゃん市蔵ちゃんと云って、兄さんとはけっして呼ばなかった。この妹は父の亡《な》くなる何年前かに実扶的里亜《ジフテリア》で死んでしまった。その頃は血清注射がまだ発明されない時分だったので、治療も大変に困難だったのだろう。僕は固《もと》より実扶的里亜と云う名前さえ知らなかった。宅《うち》へ見舞に来た松本に、御前も実扶的里亜かと調戯《からか》われて、うんそうじゃないよ僕軍人だよと答えたのを今だに忘れずにいる。妹が死んでから当分はむずかしい父の顔がだいぶ優しく見えた。母に向って、まことに御前には気の毒な事をしたといった顔がことに穏《おだや》かだったので、小供ながら、ついその時の言葉まで小《ち》さい胸に刻みつけておいた。しかし母がそれに対してどう答えたかは全く知らない。いくら思い出そうとしても思い出せないところをもって見ると、初《はじめ》から覚えなかったのだろう。これほど鋭敏に父を観察する能力を、小供の時から持っていた僕が、母に対する注意に欠けていたのも不思議である。人間が自分よりも余計に他《ひと》を知りたがる癖のあるものだとすれば、僕の父は母よりもよほど他人らしく僕に見えていたのかも分らない。それを逆に云うと、母は観察に価《あたい》しないほど僕に親しかったのである。――とにかく妹は死んだ。それからの僕は父に対しても母に対しても一人息子であった。父が死んで以後の今の僕は母に対しての一人息子である。

        五

 だから僕は母をできるだけ大事にしなければすまない。が、実際は同じ源因がかえって僕をわがままにしている。僕は去年学校を卒業してから今日《こんにち》まで、まだ就職という問題についてただの一日も頭を使った事がない。出た時の成績はむしろ好い方であった。席次を目安《めやす》に人を採《と》る今の習慣を利用しようと思えば、随分友達を羨《うらや》ましがらせる位置に坐り込む機会もないではなかった。現に一度はある方面から人選《にんせん》の依託《いたく》を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さえ有《も》っている。それだのに僕は動かなかった。固《もと》より自慢でこう云う話をするのではない。真底を打ち明ければむしろ自慢の反対で、全く信念の欠乏から来た引込《ひっこ》み思案《じあん》なのだから不愉快である。が、朝から晩まで気骨を折って、世の中に持て囃《はや》されたところで、どこがどうしたんだという横着は、無論断わる時からつけ纏《まと》っていた。僕は時めくために生れた男ではないと思う。法律などを修《おさ》めないで、植物学か天文学でもやったらまだ性《しょう》に合った仕事が天から授かるかも知れないと思う。僕は世間に対してははなはだ気の弱い癖に、自分に対しては大変辛抱の好い男だからそう思うのである。
 こういう僕のわがままをわがままなりに通してくれるものは、云うまでもなく父が遺《のこ》して行ったわずかばかりの財産である。もしこの財産がなかったら、僕はどんな苦しい思をしても、法学士の肩書を利用して、世間と戦かわなければならないのだと考えると、僕は死んだ父に対して改ためて感謝の念を捧げたくなると同時に、自分のわがままはこの財産のためにやっと存在を許されているのだからよほど腰の坐《すわ》らないあさはかなものに違ないと推断する。そうしてその犠牲にされている母が一層気の毒になる。
 母は昔堅気《むかしかたぎ》の教育を受けた婦人の常として、家名を揚げるのが子たるものの第一の務《つとめ》だというような考えを、何より先に抱《いだ》いている。しかし彼女の家名を揚《あ》げるというのは、名誉の意味か、財産の意味か、権力の意味か、または徳望の意味か、そこへ行くと全く何の分別もない。ただ漠然《ばくぜん》と、一つが頭の上に落ちて来れば、すべてその他が後《あと》を追って門前に輻湊《ふくそう》するぐらいに思っている。しかし僕はそういう問題について、何事も母に説明してやる勇気がない。説明して聞かせるには、まず僕の見識でもっともと認めた家名の揚げ方をした上でないと、僕にその資格ができないからで
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