《ぶあいきょう》なものだね」と云って笑い出した。須永も突然おかしくなったと見えて笑い出した。それから後《あと》は二人の気分と同じように、二人の会話も円満に進行した。敬太郎が須永から「君もこの頃はだいぶ落ちついて来たようだ」と評されても、彼は「少し真面目《まじめ》になったかね」とおとなしく受けるし、彼が須永に「君はますます偏窟《へんくつ》に傾くじゃないか」と調戯《からか》っても、須永は「どうも自分ながら厭《いや》になる事がある」と快よく己《おの》れの弱点を承認するだけであった。
 こういう打ち解けた心持で、二人が差し向いに互の眼の奥を見透《みとお》して恥ずかしがらない時に、千代子の問題が持ち出されたのは、その真相を聞こうとする敬太郎に取って偶然の仕合せであった。彼はまず一週間ほど前耳にした彼女が近いうちに結婚するという噂《うわさ》を皮切《かわきり》に須永を襲《おそ》った。その時須永は少しも昂奮《こうふん》した様子を見せなかった。むしろいつもより沈んだ調子で、「また何か縁談が起りかけているようだね。今度は旨《うま》く纏《まと》まればいいが」と答えたが、急に口調《くちょう》を更《か》えて、「なに君は知らない事だが、今までもそう云う話は何度もあったんだよ」とさも陳腐《ちんぷ》らしそうに説明して聞かせた。
「君は貰《もら》う気はないのかい」
「僕が貰うように見えるかね」
 話しはこんな風に、御互で引き摺《ず》るようにしてだんだん先へ進んだが、いよいよ際《きわ》どいところまで打ち明けるか、さもなければ題目を更《か》えるよりほかに仕方がないという点まで押しつめられた時、須永はとうとう敬太郎に「また洋杖《ステッキ》を持って来たんだね」と云って苦笑した。敬太郎も笑いながら縁側《えんがわ》へ出た。そこから例の洋杖を取ってまた這入って来たが、「この通りだ」と蛇《へび》の頭を須永に見せた。

        三

 須永《すなが》の話は敬太郎《けいたろう》の予期したよりも遥《はる》かに長かった。――
 僕の父は早く死んだ。僕がまだ親子の情愛をよく解しない子供の頃に突然死んでしまった。僕は子がないから、自分の血を分けた温《あた》たかい肉の塊《かたま》りに対する情《なさけ》は、今でも比較的薄いかも知れないが、自分を生んでくれた親を懐《なつ》かしいと思う心はその後《ご》だいぶ発達した。今の心をその時分持っていたならと考える事も稀《まれ》ではない。一言《いちごん》でいうと、当時の僕は父にははなはだ冷淡だったのである。もっとも父もけっして甘い方ではなかった。今の僕の胸に映る彼の顔は、骨の高い血色の勝《すぐ》れない、親しみの薄い、厳格な表情に充《み》ちた肖像に過ぎない。僕は自分の顔を鏡の裏《うち》に見るたんびに、それが胸の中に収めた父の容貌《ようぼう》と大変似ているのを思い出しては不愉快になる。自分が父と同じ厭《いや》な印象を、傍《はた》の人に与えはしまいかと苦に病んで、そこで気が引けるばかりではない。こんな陰欝《いんうつ》な眉《まゆ》や額が代表するよりも、まだましな温たかい情愛を、血の中に流している今の自分から推して、あんなに冷酷に見えた父も、心の底には自分以上に熱い涙を貯《たくわ》えていたのではなかろうかと考えると、父の記念《かたみ》として、彼の悪い上皮《うわかわ》だけを覚えているのが、子としていかにも情ない心持がするからである。父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介《やっかい》にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」と云った。僕は生れた時から母の厄介になっていたのだから、今更《いまさら》改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思った。黙って坐っていると、父は骨ばかりになった顔の筋を無理に動かすようにして、「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。僕は母が今まで構ってくれたんだからこのままの僕でたくさんだという気が充分あった。それで父の小言《こごと》をまるで必要のない余計な事のように考えて病室を出た。
 父が死んだ時母は非常に泣いた。葬式が出る間際《まぎわ》になって、僕は着物を着換えさせられたまま、手持無沙汰《てもちぶさた》だから、一人|縁側《えんがわ》へ出て、蒼《あお》い空を覗《のぞ》き込むように眺《なが》めていると、白無垢《しろむく》を着た母が何を思ったか不意にそこへ出て来た。田口や松本を始め、供《とも》に立つものはみんな向《むこう》の方で混雑《ごたごた》していたので、傍《はた》には誰も見えなかった。母は突然《いきなり》自分の坊主頭へ手を載《の》せて、泣き腫《は》らした眼を自分の上に据《す》えた。そうして小さい声で、「御父さんが御亡《おな》くなりになっても、御母さんが今まで通り可愛
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