いものを袂《たもと》から出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永を窘《たし》なめた。
「市さん、あなた本当に悪《にく》らしい方《かた》ね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つ零《こぼ》すじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気《のんき》な事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚《おぼえ》があって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母の傍《そば》へ来て座に着いた。須永も続いて這入《はい》って来た。そうして二人の向側《むこうがわ》にある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席を割《さ》いてやった。
四人が茶を呑《の》んで待ち合わしている間《あいだ》に、骨上《こつあげ》の連中が二三組見えた。最初のは田舎染《いなかじ》みた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多く利《き》かなかった。次には尻を絡《から》げた親子連《おやこづれ》が来た。活溌《かっぱつ》な声で、壺《つぼ》を下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪《さんぱつ》に角帯を締《し》めた男とも女とも片のつかない盲者《めくら》が、紫の袴《はかま》を穿《は》いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、袂《たもと》から出した巻煙草《まきたばこ》を吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞと促《うな》がしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
八
真鍮《しんちゅう》の掛札に何々殿と書いた並等《なみとう》の竈《かま》を、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い空地《あきち》の隅《すみ》に松薪《まつまき》が山のように積んであった。周囲《まわり》には綺麗《きれい》な孟宗藪《もうそうやぶ》が蒼々《あおあお》と茂っていた。その下が麦畠《むぎばたけ》で、麦畠の向うがまた岡続きに高く蜿蜒《うねうね》しているので、北側の眺《なが》めはことに晴々《はればれ》しかった。須永《すなが》はこの空地の端《はし》に立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
「市《いっ》さん、もう用意ができたんですって」
須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの竹藪《たけやぶ》は大変みごとだね。何だか死人《しびと》の膏《あぶら》が肥料《こやし》になって、ああ生々《いきいき》延びるような気がするじゃないか。ここにできる筍《たけのこ》はきっと旨《うま》いよ」と云った。千代子は「おお厭《いや》だ」と云《い》い放《ぱなし》にして、さっさとまた並等《なみとう》を通り抜けた。宵子《よいこ》の竈《かま》は上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に昨日《きのう》の花環が少し凋《しぼ》みかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが昨夜《ゆうべ》宵子の肉を焼いた熱気《ねっき》の記念《かたみ》のように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。御坊《おんぼう》が三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。畏《かしこ》まった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながら錠《じょう》を抜いた。黒い鉄の扉が左右へ開《あ》くと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊《ひとかたまり》となって朧気《おぼろげ》に見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方に継《つ》ぎ足しておいて、鉄の環《かん》に似たものを二つ棺台の端《はし》にかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の焼残《やけのこり》が四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の御供《おそなえ》に似てふっくらと膨《ふく》らんだ宵子の頭蓋骨《ずがいこつ》が、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に手帛《ハンケチ》を口に銜《くわ》えた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残
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