肯《うな》ずいた。
「いつ」
「ほら先刻《さっき》御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
 千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺の葢《ふた》をもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、怖《こわ》いから」と云って百代は首をふった。
 晩には通夜僧《つやそう》が来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経《さんぶきょう》がどうだの、和讃《わさん》がどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人《しんらんしょうにん》と蓮如上人《れんにょしょうにん》という名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施《おふせ》を僧の前に並べて、もう宜《よろ》しいから御引取下さいと断《こと》わった。坊さんの帰った後《あと》で御仙がその理由《わけ》を聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのは嫌《きらい》だよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
 あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端《みちばた》の人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送《もくそう》した。松本は白張《しらはり》の提灯《ちょうちん》や白木《しらき》の輿《こし》が嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲《ぐるり》に垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子《しろりんず》の覆《おい》をした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供が駆《か》け寄って来て、珍らしそうに車を覗《のぞ》き込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
 寺では読経《どきょう》も焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂《うれい》に鎖《とざ》された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香《こう》をつまんで香炉《こうろ》の裏《うち》へ燻《くべ》るのを間違えて、灰を一撮《ひとつか》み取って、抹香《まっこう》の中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来《やらい》へ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日《きのう》一昨日《おととい》の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。

        七

 骨上《こつあげ》には御仙《おせん》と須永《すなが》と千代子とそれに平生《ふだん》宵子《よいこ》の守をしていた清《きよ》という下女がついて都合|四人《よつたり》で行った。柏木《かしわぎ》の停車場《ステーション》を下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずに宅《うち》から車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色《けしき》も忘れ物を思い出したように嬉《うれ》しかった。眼に入るものは青い麦畠《むぎばたけ》と青い大根畠と常磐木《ときわぎ》の中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々|後《うしろ》を振り返って、穴八幡《あなはちまん》だの諏訪《すわ》の森《もり》だのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のために指《ゆびさ》した。それには弘法大師《こうぼうだいし》千五十年|供養塔《くようとう》と刻《きざ》んであった。その下に熊笹《くまざさ》の生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋の袂《たもと》をさも田舎路《いなかみち》らしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿が鮮《あざ》やかに千代子の眼を刺戟《しげき》した。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
 火葬場は日当りの好い平地《ひらち》に南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、鍵《かぎ》は御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急に懐《ふところ》や帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥《ようだんす》の上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いで市《いっ》さんに取って来て貰うと好いわ」
 二人の問答を後《うしろ》の方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重
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