ってある新柄《しんがら》の襟飾《ネクタイ》だの、絹帽《シルクハット》だの、変《かわ》り縞《じま》の膝掛《ひざかけ》だのを覗《のぞ》き込みながら、こう遠慮をするようでは、探偵の興も覚《さ》めるだけだと考えた。女がすでに離れた以上、自分の仕事に飽《あき》が来たと云ってはすまないが、前《ぜん》同様であるべき窮屈の程度が急に著るしく感ぜられてならなかった。彼の依頼されたのは中折の男が小川町で降りてから二時間内の行動に限られているのだから、もうこれで偵察の役目は済んだものとして、下宿へ帰って寝ようかとも思った。
 そこへ男の待っている電車が来たと見えて、彼は長い手で鉄の棒を握るや否《いな》や瘠《や》せた身体《からだ》を体《てい》よくとまり切らない車台の上に乗せた。今まで躊躇《ちゅうちょ》していた敬太郎は急にこの瞬間を失なってはという気が出たので、すぐ同じ車台に飛び上った。車内はそれほど込みあっていなかったので、乗客は自由に互の顔を見合う余裕を充分持っていた。敬太郎は箱の中に身体を入れると同時に、すでに席を占めた五六人から一度に視線を集められた。そのうちには今|坐《すわ》ったばかりの中折の男のも交《まじ》っていたが、彼の敬太郎を見た眼のうちには、おやという認識はあったが、つけ覘《ねら》われているなという疑惑はさらに現われていなかった。敬太郎はようやく伸び伸びした心持になって、男と同じ側を択《よ》って腰を掛けた。この電車でどこへ連れて行かれる事かと思って軒先を見ると、江戸川行と黒く書いてあった。彼は男が乗り換えさえすれば、自分も早速降りるつもりで、停留所へ来るごとに男の様子を窺《うか》がった。男は始終《しじゅう》隠袋《かくし》へ手を突き込んだまま、多くは自分の正面かわが膝《ひざ》の上かを見ていた。その様子を形容すると、何にも考えずに何か考え込んでいると云う風であった。ところが九段下へかかった頃から、長い首を時々伸ばして、ある物を確かめたいように、窓の外を覗き出した。敬太郎もつい釣り込まれて、見悪《みにく》い外を透《す》かすように眺《なが》めた。やがて電車の走る響の中に、窓硝子《まどガラス》にあたって摧《くだ》ける雨の音が、ぽつりぽつりと耳元でし始めた。彼は携《たずさ》えている竹の洋杖《ステッキ》を眺めて、この代りに雨傘《あまがさ》を持って来ればよかったと思い出した。
 彼は洋食店以後、中折を被《かぶ》った男の人柄《ひとがら》と、世の中にまるで疑《うたがい》をかけていないその眼つきとを注意した結果、この時ふと、こんな窮屈な思いをして、いらざる材料を集めるよるも、いっそ露骨《むきだし》にこっちから話しかけて、当人の許諾を得た事実だけを田口に報告した方が、今更|遅蒔《おそまき》のようでも、まだ気が利《き》いていやしないかと考えて、自分で自分を彼に紹介する便法《べんぽう》を工夫し始めた。そのうち電車はとうとう終点まで来た。雨はますます烈しくなったと見えて、車がとまるとざあという音が急に彼の耳を襲《おそ》った。中折の男は困ったなと云いながら、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて洋袴《ズボン》の裾《すそ》を返した。敬太郎は洋杖を突きながら立ち上った。男は雨の中へ出ると、直《すぐ》寄って来る俥引《くるまひき》を捕《つら》まえた。敬太郎も後《おく》れないように一台雇った。車夫は梶棒《かじぼう》を上げながら、どちらへと聞いた。敬太郎はあの車の後《あと》について行けと命じた。車夫はへいと云ってむやみに馳《か》け出した。一筋道を矢来《やらい》の交番の下まで来ると、車夫は又梶棒をとめて、旦那どっちへ行くんですと聞いた。男の乗った車はいくら幌《ほろ》の内から延び上っても影さえ見えなかった。敬太郎は車上に洋杖を突っ張ったまま、雨の音のする中で方角に迷った。


     報告

        一

 眼が覚《さ》めると、自分の住み慣《な》れた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎《けいたろう》には全く変に思われた。昨日《きのう》の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏《まと》まりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充《み》ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋《かわや》も、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉《まゆ》の間に黒子《ほくろ》のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚《さんご》の珠《たま》も、みんな陶然《とうぜん》とした
前へ 次へ
全116ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング