空の下にいる自分が、なぜこんな落ちつかない真似《まね》を好んでやるのだろうと偶然考えた。同時にすべての責任が自分の今突いている竹の洋杖《ステッキ》にあるような気がした。彼は例のごとく蛇《へび》の頭を握って、寒さに対する欝憤《うっぷん》を晴らすごとくに、二三度それを烈《はげ》しく振った。その時待ち佗びた人の影法師が揃《そろ》って洋食店の門口を出た。敬太郎《けいたろう》は何より先に女の細長い頸《くび》を包む白い襟巻《えりまき》に眼をつけた。二人はすぐと大通りへ出て、敬太郎の向う側を、先刻とは反対の方角に、元来た道へ引き返しにかかった。敬太郎も猶予《ゆうよ》なく向うへ渡った。彼らは緩《ゆる》い歩調で、賑《にぎ》やかに飾った店先を軒《のき》ごとに覗《のぞ》くように足を運ばした。後《うしろ》から跟《つ》いて行く敬太郎は是非共二人に釣り合った歩き方をしなければならないので、その遅過ぎるのがだいぶ苦になった。男は香《か》の高い葉巻を銜《くわ》えて、行く行く夜の中へ微《かす》かな色を立てる煙を吐いた。それが風の具合で後《うしろ》から従がう敬太郎の鼻を時々快ろよく侵《おか》した。彼はその香《にお》いを嗅《か》ぎ嗅ぎ鈍《のろ》い足並を我慢して実直にその跡を踏んだ。男は背が高いので後《うしろ》から見ると、ちょっと西洋人のように思われた。それには彼の吹かしている強い葉巻が多少|錯覚《さっかく》を助けた。すると聯想《れんそう》がたちまち伴侶《つれ》の方に移って、女が旦那《だんな》から買って貰《もら》った革《かわ》の手袋を穿《は》めている洋妾《らしゃめん》のように思われた。敬太郎がふとこういう空想を起して、おかしいと思いながらも、なお一人で興を催していると、二人は最前待ち合わした停留所の前まで来てちょっと立ちどまったが、やがてまた線路を横切って向側へ越した。敬太郎も二人のする通りを真似《まね》た。すると二人はまた美土代町《みとしろちょう》の角《かど》をこちらから反対の側へ渡った。敬太郎もつづいて同じ側へ渡った。二人はまた歩き出して南へ動いた。角から半町ばかり来ると、そこにも赤く塗った鉄の柱が一本立っていた。二人はその柱の傍《そば》へ寄って立った。彼らはまた三田線を利用して南へ、帰るか、行くか、する人だとこの時始めて気がついた敬太郎は、自分も是非同じ電車へ乗らなければなるまいと覚悟した。彼らは申し合せたように敬太郎の方を顧《かえり》みた。固《もと》より彼のいる方から電車が横町を曲って来るからではあるが、それにしても敬太郎は余り好い心持はしなかった。彼は帽子の鍔《つば》をひっくり返して、ぐっと下へおろして見たり、手で顔を撫《な》でて見たり、なるべく軒下へ身を寄せて見たり、わざと変な見当《けんとう》を眺《なが》めて見たりして、電車の現われるのをつらく待ち佗《わ》びた。
間《ま》もなく一台来た。敬太郎はわざと二人の乗った後《あと》から這入《はい》って、嫌疑《けんぎ》を避けようと工夫した。それでしばらく後の方にぐずぐずしていると、女は例の長いコートの裾《すそ》を踏まえないばかりに引き摺《ず》って車掌台の上に足を移した。しかしあとから直《すぐ》続くと思った男は、案外|上《あが》る気色《けしき》もなく、足を揃《そろ》えたまま、両手を外套《がいとう》の隠袋《かくし》に突き差して立っていた。敬太郎は女を見送りに男がわざわざここまで足を運んだのだという事にようやく気がついた。実をいうと、彼は男よりも女の方に余計興味を持っていたのである。男と女がここで分れるとすれば、無論男を捨てて女の先途だけを見届けたかった。けれども自分が田口から依託《いたく》されたのは女と関係のない黒い中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》った男の行動だけなので、彼は我慢して車台に飛び上がるのを差し控えた。
三十六
女は車台に乗った時、ちょっと男に目礼したが、それぎり中へ這入《はい》ってしまった。冬の夜《よ》の事だから、窓硝子《まどガラス》はことごとく締《し》め切ってあった。女はことさらにそれを開けて内から首を出すほどの愛嬌《あいきょう》も見せなかった。それでも男はのっそり立って、車の動くのを待っていた。車は動き出した。二人の間に挨拶《あいさつ》の交換《やりとり》がもう必要でないと認めたごとく、電力は急いで光る窓を南の方《かた》へ運び去った。男はこの時口に銜《くわ》えた葉巻を土の上に投げた。それから足の向を変えてまた三ツ角の交叉点まで出ると、今度は左へ折れて唐物屋《とうぶつや》の前でとまった。そこは敬太郎《けいたろう》が人に突き当られて、竹の洋杖《ステッキ》を取り落した記憶の新らしい停留所であった。彼は男の後《あと》を見え隠れにここまで跟《つ》いて来て、また見たくもない唐物屋の店先に飾
前へ
次へ
全116ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング