一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充《み》ちて活躍したものは竹の洋杖《ステッキ》であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌《ほろ》を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切《ひとくぎり》として、ほとんど狐から取り憑《つ》かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯《ひ》で佗《わ》びしく照らされたびしょ濡《ぬ》れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒《かじぼう》を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
彼は寝ながら天井《てんじょう》を眺《なが》めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔《ふつかよい》の眼と頭をもって、蚕《かいこ》の糸を吐《は》くようにそれからそれへと出てくるこの記念《かたみ》の画《え》を飽《あ》かず見つめていたが、しまいには眼先に漂《ただ》ようふわふわした夢の蒼蠅《うるさ》さに堪《た》えなくなった。それでも後《あと》から後からと向うで独《ひと》り勝手《がって》に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯《かんれん》して、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌《ようぼう》は固《もと》より服装《なり》から歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切《はっき》りと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、鮮《あざ》やかな色と形を備えて眸《ひとみ》を侵《おか》して来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕《ゆうべ》法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口《かどぐち》を潜《くぐ》った時、何心なくその洋杖を持ったまま自分の室《へや》まで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚《とだな》の奥の行李《こうり》の後《うしろ》へ投げ込んでしまったのである。
今朝《けさ》は蛇《へび》の頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵《よい》へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏《まと》める段になると、自分の引き受けた仕事は成効《せいこう》しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖《ステッキ》の御蔭《おかげ》を蒙《こうむ》っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着《よぎ》を剥《は》ぐって跳《は》ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日《きのう》の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室《へや》に上《のぼ》った。そこの窓を潔《いさ》ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟《しげき》した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力《つと》めて実際的に思慮を回《めぐ》らした。
二
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎《けいたろう》は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急《せ》くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直《すぐ》行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後《あと》で、差支《さしつかえ》ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予《ゆうよ》なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄《げた》が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物《かけもの》が二幅掛かっていた。湯呑《ゆのみ》のような深い茶碗《ちゃわん》に、書生が番茶を一杯|汲《く》んで出した。桐《きり》を刳《く》った手焙《てあぶり》も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団《ざぶと
前へ
次へ
全116ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング