を一人雇って、充分の時間を与えた上、できるだけAの心を動かすように艶《なま》めかしく曲《くね》らしたもので、誰が貰《もら》っても嬉《うれ》しい顔をするに足るばかりか、今日の新聞を見たら、明日《あした》ここへ御着のはずだと出ていたので、久しぶりにこの手紙を上げるんだから、どうか読みしだい、どこそこまで来ていただきたいと書いたなかなか安くないものであった。彼はその晩自分でこの手紙をポストへ入れて、翌日配達の時またそれを自分で受取ったなり、Aの来るのを待ち受けた。Aが着いても彼はこの手紙をなかなか出さなかった。力《つと》めて真面目《まじめ》な用談についての打合せなどを大事らしくし続けて、やっと同じ食卓で晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》に向った時、突然思い出したように袂《たもと》の中からそれを取り出してAに与えた。Aは表に至急親展とあるので、ちょっと箸《はし》を下に置くと、すぐ封を開いたが、少し読み下《くだ》すと同時に包んである写真を抜いて裏を見るや否《いな》や、急に丸めるように懐《ふところ》へ入れてしまった。何か急《いそぎ》の用でもできたのかと聞くと、いや何というばかりで、不得要領《ふとくようりょう》にまた箸を取ったが、どことなくそわそわした様子で、まだ段落のつかない用談をそのままに、少し失礼する腹が痛いからと云って自分の部屋に帰った。田口は下女を呼んで、今から十五分以内にAが外出するだろうから、出るときは車が待ってでもいたように、Aが何にも云わない先に彼を乗せて馳《か》け出して、その思わく通りどこの何という家《うち》の門《かど》へおろすようにしろと云いつけた。そうして自分はAより早く同じ家へ行って、主婦《かみさん》を呼ぶや否や、今おれの宿の提灯《ちょうちん》を点《つ》けた車に乗って、これこれの男が来るから、来たらすぐ綺麗《きれい》な座敷へ通して、叮嚀《ていねい》に取扱って、向うで何にも云わない先に、御連様《おつれさま》はとうから御待兼《おまちかね》でございますと云ったなり引き退がって、すぐおれのところへ知らせてくれと頼んだ。そうして一人で煙草《たばこ》を吹かして腕組をしながら、事件の経過を待っていた。すると万事が旨《うま》い具合に予定の通り進行して、いよいよ自分の出る順が来た。そこでAの部屋の傍《そば》へ行って間の襖《ふすま》を開けながら、やあ早かったねと挨拶《あいさつ》す
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