ん怒ってはとうてい物にならないにきまり切っている。しかし今更《いまさら》それを打ち明ける訳には行かないので、敬太郎はただ黙っていた。須永の母はなお「あんな顔はしておりますが、見かけによらない実意のある剽軽者《ひょうきんもの》でございますから」と云って一人で笑った。
十三
剽軽者という言葉は田口の風采《ふうさい》なり態度なりに照り合わせて見て、どうも敬太郎《けいたろう》の腑《ふ》に落ちない形容であった。しかし実際を聞いて見ると、なるほど当っているところもあるように思われた。田口は昔《むか》しある御茶屋へ行って、姉さんこの電気灯は熱《ほて》り過ぎるね、もう少し暗くしておくれと頼んだ事があるそうだ。下女が怪訝《けげん》な顔をして小さい球と取り換えましょうかと聞くと、いいえさ、そこをちょいと捻《ねじ》って暗くするんだと真面目《まじめ》に云いつけるので、下女はこれは電気灯のない田舎《いなか》から出て来た人に違ないと見て取ったものか、くすくす笑いながら、旦那電気はランプと違って捻《ひね》ったって暗くはなりませんよ、消えちまうだけですから。ほらねとぱちッと音をさせて座敷を真暗にした上、またぱっと元通りに明るくするかと思うと、大きな声でばあと云った。田口は少しも悄然《しょげ》ずに、おやおやまだ旧式を使ってるね。見っともないじゃないか、ここの家《うち》にも似合わないこった。早く会社の方へ改良を申し込んでおくといい。順番に直してくれるから。とさももっともらしい忠告を与えたので、下女もとうとう真《ま》に受け出して、本当にこれじゃ不便ね、だいち点《つ》けっ放《ぱな》しで寝る時なんか明る過ぎて、困る人が多いでしょうからとさも感心したらしく、改良に賛成したそうである。ある時用事が出来て門司《もじ》とか馬関《ばかん》とかまで行った時の話はこれよりもよほど念が入《い》っている。いっしょに行くべきはずのAという男に差支《さしつかえ》が起って、二日ばかり彼は宿屋で待ち合わしていた。その間の退屈紛《たいくつまぎ》れに、彼はAを一つ担《かつ》いでやろうと巧《たく》らんだ。これは町を歩いている時、一軒の写真屋の店先でふと思いついた悪戯《いたずら》で、彼はその店から地方《ところ》の芸者の写真を一枚買ったのである。その裏へA様と書いて、手紙を添えた贈物のように拵《こしら》えた。その手紙は女
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