気《うわき》になって行きます。賞《ほ》めて下さい。月の差す二階の客は、神戸から遊びに来たとかで、僕の厭《いや》な東京語ばかり使って、折々詩吟などをやります。その中に艶《なま》めかしい女の声も交《まじ》っていましたが、二三十分前から急におとなしくなりました。下女に聞いたらもう神戸へ帰ったのだそうです。夜もだいぶ更《ふ》けましたから、僕も休みます」

        十二

「昨夕《ゆうべ》も手紙を書きましたが、今日もまた今朝《こんちょう》以来の出来事を御報知します。こう続けて叔父さんにばかり手紙を上げたら、叔父さんはきっと皮肉な薄笑いをして、あいつどこへも文《ふみ》をやる所がないものだから、已《やむ》を得ず姉と己《おれ》に対してだけ、時間を費《つい》やして音信《たより》を怠《おこた》らないんだと、腹の中で云うでしょう。僕も筆を執《と》りながら、ちょっとそう云う考えを起しました。しかし僕にもしそんな愛人ができたら、叔父さんはたとい僕から手紙を貰《もら》わないでも、喜こんで下さるでしょう。僕も叔父さんに音信を怠っても、その方が幸福だと思います。実は今朝起きて二階へ上《あが》って海を見下《みおろ》していると、そういう幸福な二人連が、磯通《いそづた》いに西の方へ行きました。これはことによると僕と同じ宿に泊っている御客かも知れません。女がクリーム色の洋傘《こうもり》を翳《さ》して、素足に着物の裾《すそ》を少し捲《まく》りながら、浅い波の中を、男と並んで行く後姿《うしろすがた》を、僕は羨《うらや》ましそうに眺《なが》めたのです。波は非常に澄んでいるから高い所から見下すと、陸《おか》に近いあたりなどは、日の照る空気の中と変りなく何でも透《す》いて見えます。泳いでいる海月《くらげ》さえ判切《はっきり》見えます。宿の客が二人出て来て泳ぎ廻っていますが、彼らの水中でやる所作《しょさ》が、一挙一動ことごとく手に取るように見えるので、芸としての水泳の価値が、だいぶ下落するようです。(午前七時半)」
「今度は西洋人が一人水に浸《つか》っています。あとから若い女が出て来ました。その女が波の中に立って、二階に残っているもう一人の西洋人を呼びます。『ユー、カム、ヒヤ』と云って英語を使います。『イット、イズ、ヴェリ、ナイス、イン、ウォーター』と云うような事をしきりに申します。その英語はなかなか達者で流
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