沢《ぜいたく》なところがあるようですし、あんな内気な母にも、妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。ただ僕だけは、――こういうとまたあの問題を持ち出したなと早合点《はやがてん》なさるかも知れませんが、僕はもうあの事について叔父さんの心配なさるほど屈托《くったく》していないつもりですから安心して下さい。ただ僕だけはと断るのはけっして苦《にが》い意味で云うのではありません。僕はこの点において、叔父さんとも母とも生れつき違っていると申したいのです。僕は比較的楽に育った、物質的に幸福な子だから、贅沢と知らずに贅沢をして平気でいました。着物などでも、母の注意で、人前へ出て恥かしくないようなものを身に着けながら、これが当然だと澄ましていました。けれどもそれは永く習慣に養われた結果、自分で知らない不明から出るので、一度そこに気がつくと、急に不安になります。着物や食事はまあどうでもいいとして、僕はこの間ある富豪のむやみに金を使う様子を聞いて恐ろしくなった事があります。その男は芸者は幇間《ほうかん》を大勢集めて、鞄《かばん》の中から出した札《さつ》の束《たば》を、その前でずたずたに裂いて、それを御祝儀《ごしゅうぎ》とか称《とな》えて、みんなにやるのだそうです。それから立派な着物を着[#「着」は底本では「来」]たまま湯に這入《はい》って、あとは三助《さんすけ》にくれるのだそうです。彼の乱行はまだたくさんありましたが、いずれも天を恐れない暴慢|極《きわ》まるもののみでした。僕はその話を聞いた時無論彼を悪《にく》みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりもむしろ恐れました。僕から彼の所行《しょぎょう》を見ると、強盗が白刃《しらは》の抜身を畳に突き立てて良民を脅迫《おびやか》しているのと同じような感じになるのです。僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないという、真正に宗教的な意味において恐れたのです。僕はこれほど臆病な人間なのです。驕奢《きょうしゃ》に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して躍《おど》り狂う人の、一転化の後《のち》を想像して、怖《こわ》くてたまらないのであります。――僕はこんな事を考えて、静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながら、このくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。僕も叔父さんから注意されたように、だんだん浮
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