を、姉へ御土産として持って来てくれればいいがと思った。

        十一

 次のは明石《あかし》から来たもので、前に比べると多少複雑なだけに、市蔵の性格をより鮮《あざ》やかに現わしている。
「今夜ここに来ました。月が出て庭は明らかですが、僕の部屋は影になってかえって暗い心持がします。飯を食って煙草《たばこ》を呑んで海の方を眺《なが》めていると、――海はつい庭先にあるのです。漣《さざなみ》さえ打たない静かな晩だから、河縁《かわべり》とも池の端《はた》とも片のつかない渚《なぎさ》の景色《けしき》なんですが、そこへ涼み船が一|艘《そう》流れて来ました。その船の形好《かっこう》は夜でよく分らなかったけれども、幅の広い底の平たい、どうしても海に浮ぶものとは思えない穏《おだ》やかな形を具《そな》えていました。屋根は確かあったように覚えます。その軒から画の具で染めた提灯《ちょうちん》がいくつもぶら下がっていました。薄い光の奥には無論人が坐《すわ》っているようでした。三味線の音も聞こえました。けれども惣体《そうたい》がいかにも落ちついて、滑《すべ》るように楽しんで僕の前を流れて行きました。僕は静かにその影を見送って、御祖父《おじい》さんの若い時分の話というのを思い出しました。叔父さんは固《もと》より御存じでしょう、御祖父さんが昔の通人のした月見の舟遊《ふねあそび》を実際にやった話を。僕は母から二三度聞かされた事があります。屋根船を綾瀬川《あやせがわ》まで漕《こ》ぎ上《のぼ》せて、静かな月と静かな波の映り合う真中に立って、用意してある銀扇《ぎんせん》を開いたまま、夜の光の遠くへ投げるのだと云うじゃありませんか。扇の要《かなめ》がぐるぐる廻って、地紙《じがみ》に塗った銀泥《ぎんでい》をきらきらさせながら水に落ちる景色は定めてみごとだろうと思います。それもただの一本ならですが、船のものがそうがかりで、ひらひらする光を投げ競《きそ》う光景は想像しても凄艶《せいえん》です。御祖父《おじい》さんは銅壺《どうこ》の中に酒をいっぱい入れて、その酒で徳利《とくり》の燗《かん》をした後《あと》をことごとく棄《す》てさしたほどの豪奢《ごうしゃ》な人だと云うから、銀扇の百本ぐらい一度に水に流しても平気なのでしょう。そう云えば、遺伝だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですが、どこかに贅
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