た。僕はその時市蔵の事を思い出して、こういう苦《にが》い真理を承《うけたま》わらなければならない我々日本人も随分気の毒なものだが、彼のようにたった一人の秘密を、攫《つか》もうとしては恐れ、恐れてはまた攫もうとする青年は一層|見惨《みじめ》に違あるまいと考えながら、腹の中で暗に同情の涙を彼のために濺《そそ》いだ。
これは単に僕の一族内の事で、君とは全く利害の交渉を有《も》たない話だから、君が市蔵のためにせっかく心配してくれた親切に対する前からの行《ゆき》がかりさえなければ、打ち明けないはずだったが、実を云うと、市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っているのである。
僕は誰にでも明言して憚《はば》からない通り、いっさいの秘密はそれを開放した時始めて自然に復《かえ》る落着《らくちゃく》を見る事ができるという主義を抱《いだ》いているので、穏便とか現状維持とかいう言葉には一般の人ほど重きを置いていない。したがって今日《こんにち》までに自分から進んで、市蔵の運命を生れた当時に溯《さかのぼ》って、逆に照らしてやらなかったのは僕としてはむしろ不思議な手落と云ってもいいくらいである。今考えて見ると、僕が市蔵に呪われる間際《まぎわ》まで、なぜこの事件を秘密にしていたものか、その意味がほとんど分らない。僕はこの秘密に風を入れたところで、彼ら母子《おやこ》の間柄が悪くなろうとは夢にも想像し得なかったからである。
市蔵の太陽は彼の生れた日からすでに曇っていたという僕の言葉の裏に、どんな事実が含まれているかは、彼と交《まじわ》りの深い君の耳で聞いたら、すでに具体的な響となって解っているかも知れない。一口《ひとくち》でいうと、彼らは本当の母子ではないのである。なお誤解のないように一言《いちげん》つけ加えると、本当の母子よりも遥《はる》かに仲の好い継母《ままはは》と継子《ままこ》なのである。彼らは血を分けて始めて成立する通俗な親子関係を軽蔑《けいべつ》しても差支《さしつかえ》ないくらい、情愛の糸で離れられないように、自然からしっかり括《くく》りつけられている。どんな魔の振る斧《おの》の刃《は》でもこの糸を絶ち切る訳に行かないのだから、どんな秘密を打ち明けても怖《こわ》がる必要はさらにないのである。それだのに姉は非常に恐れていた。市蔵も非常に恐れていた。姉は秘密を手に握ったまま、市蔵は秘密を手
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