のです。誰も教えてくれ手がないから独《ひと》りで考えていたのです。僕は毎日毎夜考えました。余り考え過ぎて頭も身体《からだ》も続かなくなるまで考えたのです。それでも分らないからあなたに聞いたのです。あなたは自分から僕の叔父だと明言していらっしゃる。それで叔父だから他人より親切だと云われる。しかし今の御言葉はあなたの口から出たにもかかわらず、他人より冷刻なものとしか僕には聞こえませんでした」
 僕は頬《ほお》を伝わって流れる彼の涙を見た。幼少の時から馴染《なじ》んで今日《こんにち》に及んだ彼と僕との間に、こんな光景《シーン》はいまだかつて一回も起らなかった事を僕は君に明言しておきたい。したがってこの昂奮《こうふん》した青年をどう取り扱っていいかの心得が、僕にまるで無かった事もついでに断っておきたい。僕はただ茫然《ぼうぜん》として手を拱《こま》ぬいていた。市蔵はまた僕の態度などを眼中において、自分の言葉を調節する余裕を有《も》たなかった。
「僕は僻んでいるでしょうか。たしかに僻んでいるでしょう。あなたがおっしゃらないでも、よく知っているつもりです。僕は僻んでいます。僕はあなたからそんな注意を受けないでも、よく知っています。僕はただどうしてこうなったかその訳が知りたいのです。いいえ母でも、田口の叔母でも、あなたでも、みんなよくその訳を知っているのです。ただ僕だけが知らないのです。ただ僕だけに知らせないのです。僕は世の中の人間の中《うち》であなたを一番信用しているから聞いたのです。あなたはそれを残酷に拒絶した。僕はこれから生涯《しょうがい》の敵としてあなたを呪《のろ》います」
 市蔵は立ち上った。僕はそのとっさの際に決心をした。そうして彼を呼びとめた。

        五

 僕はかつてある学者の講演を聞いた事がある。その学者は現代の日本の開化を解剖して、かかる開化の影響を受けるわれらは、上滑《うわすべ》りにならなければ必ず神経衰弱に陥《おち》いるにきまっているという理由を、臆面《おくめん》なく聴衆の前に曝露《ばくろ》した。そうして物の真相は知らぬ内こそ知りたいものだが、いざ知ったとなると、かえって知らぬが仏《ほとけ》ですましていた昔が羨《うらや》ましくって、今の自分を後悔する場合も少なくはない、私の結論などもあるいはそれに似たものかも知れませんと苦笑して壇を退《しり》ぞい
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