た。けれども彼女の強さは単に優《やさ》しい一図から出た女気《おんなぎ》の凝《こ》り塊《かたま》りとのみ解釈していた。ところが今僕の前に現われた彼女は、ただ勝気に充ちただけの、世間にありふれた、俗っぽい婦人としか見えなかった。僕は心を動かすところなく、彼女の涙の間からいかなる説明が出るだろうと待ち設けた。彼女の唇《くちびる》を洩《も》れるものは、自己の体面を飾る強弁よりほかに何もあるはずがないと、僕は固く信じていたからである。彼女は濡《ぬ》れた睫毛《まつげ》を二三度|繁叩《しばたた》いた。
「あなたはあたしを御転婆《おてんば》の馬鹿だと思って始終《しじゅう》冷笑しているんです。あなたはあたしを……愛していないんです。つまりあなたはあたしと結婚なさる気が……」
「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで宜《よ》うござんす。何も貰《もら》って下さいとは云やしません。ただなぜ愛してもいず、細君にもしようと思っていないあたしに対して……」
彼女はここへ来て急に口籠《くちごも》った。不敏な僕はその後へ何が出て来るのか、まだ覚《さと》れなかった。「御前に対して」と半《なか》ば彼女を促《うな》がすように問をかけた。彼女は突然物を衝《つ》き破った風に、「なぜ嫉妬《しっと》なさるんです」と云い切って、前よりは劇《はげ》しく泣き出した。僕はさっと血が顔に上《のぼ》る時の熱《ほて》りを両方の頬《ほお》に感じた。彼女はほとんどそれを注意しないかのごとくに見えた。
「あなたは卑怯《ひきょう》です、徳義的に卑怯です。あたしが叔母さんとあなたを鎌倉へ招待した料簡《りょうけん》さえあなたはすでに疑《うたぐ》っていらっしゃる。それがすでに卑怯です。が、それは問題じゃありません。あなたは他《ひと》の招待に応じておきながら、なぜ平生《ふだん》のように愉快にして下さる事ができないんです。あたしはあなたを招待したために恥を掻《か》いたも同じ事です。あなたはあたしの宅《うち》の客に侮辱を与えた結果、あたしにも侮辱を与えています」
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」
「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」
「男
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