僕は階下《した》に母を控えているし、感情に訴える若い女の気質もよく呑《の》み込んだつもりでいたから、できるだけ相手の気を抜いて話を落ちつかせるために、その時の僕としては、ほとんど無理なほどの、低いかつ緩《ゆる》い調子を取ったのであるが、それがかえって千代子の気に入らなかったと見える。
「それが解らなければあなた馬鹿よ」
僕はおそらく平生《いつも》より蒼《あお》い顔をしたろうと思う。自分ではただ眼を千代子の上にじっと据《す》えた事だけを記憶している。その時何物も恐れない千代子の眼が、僕の視線と無言のうちに行き合って、両方共しばらくそこに止《と》まっていた事も記憶している。
三十五
「千代ちゃんのような活溌《かっぱつ》な人から見たら、僕見たいに引込思案《ひっこみじあん》なものは無論|卑怯《ひきょう》なんだろう。僕は思った事をすぐ口へ出したり、またはそのまま所作《しょさ》にあらわしたりする勇気のない、極《きわ》めて因循《いんじゅん》な男なんだから。その点で卑怯だと云うなら云われても仕方がないが……」
「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」
「しかし軽蔑《けいべつ》はしているだろう。僕はちゃんと知ってる」
「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」
僕はことさらに彼女のこの言葉を肯定する必要を認めなかったから、わざと返事を控えた。
「あなたはあたしを学問のない、理窟《りくつ》の解らない、取るに足らない女だと思って、腹の中で馬鹿にし切ってるんです」
「それは御前が僕をぐずと見縊《みくび》ってるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云われても構わないつもりだが、いやしくも徳義上の意味で卑怯というなら、そりゃ御前の方が間違っている。僕は少なくとも千代ちゃんに関係ある事柄について、道徳上卑怯なふるまいをした覚《おぼえ》はないはずだ。ぐずとか煮え切らないとかいうべきところに、卑怯という言葉を使われては、何だか道義的勇気を欠いた――というより、徳義を解しない下劣な人物のように聞えてはなはだ心持が悪いから訂正して貰いたい。それとも今いった意味で、僕が何か千代ちゃんに対してすまない事でもしたのなら遠慮なく話して貰おう」
「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。僕はこれまで千代子を自分より強い女と認めてい
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