人とかいうものは、ことごとく長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤《かっとう》を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業したばかりの経験しか有《も》たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考えたところでは、おそらくそんな偉い人高い人はいつの世にも存在していないのではなかろうか。僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物《きぶつがんぶつ》の名を加える非礼と僻見《へきけん》とを憚《はば》かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥《こうでい》しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に齷齪《あくそく》しない手を拱《こま》ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さないだけが、普通より品《ひん》が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうしてその外へ出さないのは財産の御蔭《おかげ》、年齢《とし》の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が逆《ぎゃく》なようで実は順《じゅん》に行くからでもある。――話がつい横道へ外《そ》れた。僕は僕のこせこせしたところを余り長く弁護し過ぎたかも知れない。
 僕は今いう通り早く二階へ上《あが》ってしまった。二階は日が近いので、階下《した》よりはよほど凌《しの》ぎ悪《にく》いのだけれども、平生いつけたせいで、僕は一日の大部分をここで暮らす事にしていたのである。僕はいつもの通り机の前に坐《すわ》ったなりただ頬杖《ほおづえ》を突いてぼんやりしていた。今朝|煙草《たばこ》の灰を棄《す》てたマジョリカの灰皿が綺麗《きれい》に掃除《そうじ》されて僕の肱《ひじ》の前に載《の》せてあったのに気がついて、僕はその中に現わされた二羽の鵞鳥《がちょう》[#「鵞鳥」は底本では「鷲鳥」]を眺《なが》めながら、その灰を空《あ》けた作《さく》の手を想像に描《えが》いた。すると下から梯子段《はしごだん》を踏む音がして誰か上って来た。僕はその足音を聞くや否や、すぐそれが作でない事を知った。僕はこうぼんやり屈托しているところを千代子に見られるのを屈辱のように感じた。同時に傍《そば》にあった書物を開けて、先刻《さっき》から読んでいたふりをするほど器用な機転を用いるのを好まな
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