かった。
「結《い》えたから見てちょうだい」
僕は僕の前にすぐこう云いながら坐る彼女を見た。
「おかしいでしょう。久しく結わないから」
「大変美くしくできたよ。これからいつでも島田に結《ゆ》うといい」
「二三度|壊《こわ》しちゃ結い、壊しちゃ結いしないといけないのよ。毛が馴染《なず》まなくって」
こんな事を聞いたり答えたり三四|返《へん》しているうちに、僕はいつの間にか昔と同じように美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。僕の心持が何かの調子で和《やわ》らげられたのか、千代子の僕に対する態度がどこかで角度を改ためたのか、それは判然《はんぜん》と云い悪《にく》い。こうだと説明のできる捕《とらえ》どころは両方になかったらしく記憶している。もしこの気易《きやす》い状態が一二時間も長く続いたなら、あるいは僕の彼女に対して抱《いだ》いた変な疑惑を、過去に溯《さかの》ぼって当初から真直《まっすぐ》に黒い棒で誤解という名の下《もと》に消し去る事ができたかも知れない。ところが僕はつい不味《まず》い事をしたのである。
三十四
それはほかでもない。しばらく千代子と話しているうちに、彼女が単に頭を見せに上《あが》って来たばかりでなく、今日これから鎌倉へ帰るので、そのさようならを云いにちょっと顔を出したのだと云う事を知った時、僕はつい用意の足りない躓《つま》ずき方をしたのである。
「早いね。もう帰るのかい」と僕が云った。
「早かないわ、もう一晩泊ったんだから。だけどこんな頭をして帰ると何だかおかしいわね、御嫁にでも行くようで」と千代子が云った。
「まだみんな鎌倉にいるのかい」と僕が聞いた。
「ええ。なぜ」と千代子が聞き返した。
「高木さんも」と僕がまた聞いた。
高木という名前は今まで千代子も口にせず、僕も話頭に上《のぼ》すのをわざと憚《はば》かっていたのである。が、何かの機会《はずみ》で、平生《いつも》通りの打ち解けた遠慮のない気分が復活したので、その中に引き込まれた矢先、つい何の気もつかずに使ってしまったのである。僕はふらふらとこの問をかけて彼女の顔を見た時たちまち後悔した。
僕が煮え切らないまた捌《さば》けない男として彼女から一種の軽蔑《けいべつ》を受けている事は、僕のとうに話した通りで、実を云えば二人の交際はこの黙許を認め合った上の親し
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