ぎる髪の所有者だったからである。この場合いつもの僕なら、千代ちゃんもついでに結《い》って御貰いなときっと勧めるところであった。しかし今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向って投げかける気が出悪《でにく》かった。すると偶然にも千代子の方で、何だかあたしも一つ結って見たくなったと云い出した。母は御結《おい》いよ久しぶりにと誘《いざ》なった。髪結《かみい》は是非御上げ遊ばせな、私始めて御髪《おぐし》を拝見した時から束髪《そくはつ》にしていらっしゃるのはもったいないと思っとりましたとさも結《い》いたそうな口ぶりを見せた。千代子はとうとう鏡台の前に坐った。
「何に結おうかしら」
髪結は島田を勧めた。母も同じ意見であった。千代子は長い髪を背中に垂れたまま突然|市《いっ》さんと呼んだ。
「あなた何が好き」
「旦那様《だんなさま》も島田が好きだときっとおっしゃいますよ」
僕はぎくりとした。千代子はまるで平気のように見えた。わざと僕の方をふり返って、「じゃ島田に結って見せたげましょうか」と笑った。「好いだろう」と答えた僕の声はいかにも鈍《どん》に聞こえた。
三十三
僕は千代子の髪のでき上らない先に二階へ上《あが》った。僕のような神経質なものが拘《こだ》わって来ると、無関係の人の眼にはほとんど小供らしいと思われるような所作《しょさ》をあえてする。僕は中途で鏡台の傍《そば》を離れて、美くしい島田髷《しまだまげ》をいただく女が男から強奪《ごうだつ》する嘆賞の租税を免《まぬ》かれたつもりでいた。その時の僕はそれほどこの女の虚栄心に媚《こ》びる好意を有《も》たなかったのである。
僕は自分で自分の事をかれこれ取り繕《つく》ろって好く聞えるように話したくない。しかし僕ごときものでも長火鉢《ながひばち》の傍《はた》で起るこんな戦術よりはもう少し高尚な問題に頭を使い得るつもりでいる。ただそこまで引き摺《ず》り落された時、僕の弱点としてどうしても脱線する気になれないのである。僕は自分でそのつまらなさ加減をよく心得ていただけに、それをあえてする僕を自分で憎《にく》み自分で鞭《むち》うった。
僕は空威張《からいばり》を卑劣と同じく嫌《きら》う人間であるから、低くても小《ち》さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じてなるべく隠さない。けれども、世の中で認めている偉い人とか高い
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